一生懸命やってきたからこそ「呼ばれた」ーー元旭山動物園園長・小菅正夫さんに聞く天職との出会い方
先輩に聞く
2019/12/10
ペンギンが空を飛ぶように泳ぎ、アザラシがあいさつをするように水槽を行き来する……。動物たちの生き生きとした姿を見ることができる「行動展示」や、動物本来の生態を解説してくれる「もぐもぐタイム」で知られる北海道旭川市にある日本最北の「旭山(あさひやま)動物園」。
一時は閉園の危機に陥った同園を日本一の入場者数まで立て直す中心となったのが、獣医師でもある元園長・小菅正夫(こすげ・まさお)さんです。現在は札幌市環境局で、札幌市円山動物園の組織改革に携わっています。そんな小菅さんに少年時代から、動物園の仕事につながっていくまでの話を聞きました。
生き物をつかまえ飼うのが大好きなおばあちゃん子
子どもの頃は何になりたいとか、どんな仕事に就こうとか考えたことがない。一度もない。遊ぶのに忙しくて(笑)。
生まれた時から、当たり前のように身の回りに生き物がたくさんいてお世話を手伝ってもいたし、自分でもクモやらミミズやらヘビやらを外でつかまえてきては家で飼ってた。
あと、うちは商売をやっていて両親が忙しかったから、僕はおばあちゃん子で。僕がどんな生き物を連れてきても、おばあちゃんは「かわいいね」って受け入れてくれるの。おばあちゃんがえらかったなぁ。
中学に入学してからも相変わらず、チョウやクワガタを追いかけたり、カナヘビを捕まえたりしながら、柔道を始めた。高校に入ってからは、柔道はもちろん、レスリングやラグビー、応援団もやって本当に忙しかった。
その頃、親父がもらってきた熱帯魚を飼い始めた。繁殖させていくのも好きだったから、どんどん増やすんだ。自分で増やした魚を熱帯魚屋さんに持っていって、違う魚と交換してもらうこともあった。今も、ある意味でやっていることは同じだね。
初めての壁は大学受験
生き物と柔道や他の部活に明け暮れたあと、「将来どうするか」に初めて向き合うことになった。
担任の先生は、僕が就職するものだと思っていたんだ。全然、勉強しないから。でも、僕は高校3年の時から北海道大学(以下、北大)の柔道部に稽古に通っていて、そのまま北大の柔道部に入るつもりでいたんだ。
「柔道するために北大に行きます」って言ったら、「北大なんて、そんな簡単に入れてくれないよ」って先生がびっくりしてね。何とかなると思って受験したけれど、もちろん何とかなんてならなかった。
さらに1年浪人したものの、それでも全く歯が立たなかった。そりゃそうですよ、高校3年間分の勉強が足りないんだもの。それで翌年、これが最後と自分で決めて、「もう1年、浪人させてほしい」と親に頼みました。
必死で勉強して、試験を受けて自己採点をしたらダメで。それで、もう親の世話になるわけにいかないと思って、家出の準備をしていたんだよ。その時に、合格通知が届いた。奇跡としか言いようがない(笑)。
七帝戦決勝で負けて知った努力の意味
晴れて北大に入学してからは、柔道一筋。特に主将になってからは、どうしても七帝戦【注】で勝ちたくて、死ぬほど稽古をした。これ以上できない、というくらい努力をしたんだ。それでも、京都大学との決勝戦、14人引き分けて、15人目で向こうの主将にうちの3年生が負けてしまって、それまでの人生すべてを賭けた願いがかなわなかった。
【注】 七帝戦:全国七大学総合体育大会のこと。七帝柔道と呼ばれる特殊ルールで行われる柔道競技がこの体育大会のルーツである。
それから、燃え尽き症候群になって7月半ばからの記憶がない。8月末に四国で突然我に返って、9月に北大に戻ってきた。その時に何を考えていたかというと「無駄だった、無駄だった。あんなこと(柔道の稽古)やらなきゃよかった」って。
けれど、そのうちに、「いつも一回戦で負けていた北大が決勝戦までいけたのはどうしてだろう。努力したかいがあったからじゃないか」とふと思った。
僕の出した結論は、努力は勝利という玉をつかむギリギリのところまで僕を連れて行ってくれる。でも、つかめるかどうかは時の運。でも、努力をしなかったら、その場へ立つことなんて絶対にできなかった。この柔道の経験があったから、その後の勉強や旭山動物園の立て直しの時でも結果を考えずに努力できました。
たくさんの人に旭山動物園へ訪れてもらえるようになってから、「もしどんなに頑張っても閉園することが決まってしまっていたら、どう思ったでしょうか?」と聞かれたけれど、「全然後悔しなかっただろうね。それはそれとして受け入れたと思う」と答えました。
もし園の皆で「良い動物園にしよう」と考えに考えて、十分に努力をした結果、受け入れられなくて閉園となってしまったのだとしたら後悔はしない。でも、途中で先を見てダメだと判断して逃げてしまっていたとしたら、僕は一生悔やんでも悔やみきれなかったと思う。
後悔しないように徹底的に考えなさい。でも、人生は有限だよ
七帝戦を終え北大に戻ってから、今度は卒業できるかどうかが危なくて、また必死になって勉強した(笑)。ようやく卒業見込みが出て、ホッとしたのもつかの間、獣医の国家試験の勉強もしなきゃならない。それも何とかなりそうだとなった頃になって初めて、就職のことを考えた。
本当は牛の獣医になりたかった。けれど、牛の肛門に腕を入れる直腸検査の実習が始まり、僕の番がきた。腕が太すぎて入らなかったんだ。それで、あきらめたんだよ。田舎で牛と戯れて治療しながら、のんびり暮らす予定だったのに。
それでも当時、学校の壁いっぱいに貼られていた求人票を見て、真剣に考えていた。有名な化粧品会社や製薬会社などの募集もたくさんありましたよ。でも、僕には合わないと思った。入ってから何をやるのかわからない会社には、行きたくなかったから。
どうしたものかと考えていて、卒業も目前になった時、東京大学(以下、東大)の柔道部の先輩で、北大工学部助教授(当時)だった方がこう言ってくれたんです。
「自分が納得できるまで徹底的に考えてから決めなさい。あとで後悔するようじゃよくないから。だけどね、小菅君。人生は有限なんだよ」と。考えるのはいい。でも、人生は有限だからどこかで決断しなきゃならないんだ、って。
そこで、やはり臨床をやりたいと思っていた僕は内科の先生のところで研究生として1年在籍させてもらおうと決めて、申請書を持って大学へ行った。
左に行けば内科の先生のところ、右には求人票。なぜかふっと求人票に目がいって、そこには「旭山動物園」の文字が書いてあった。目をつぶると動物園で働いている僕がイメージできたんだよね。動物園なら働き続けられると思った。化粧品会社や製薬会社ではイメージできなかったもの。
そのまま引き寄せられるように右側の就職担当の先生のところに行きました。先生は「おお、ようやく来たな」と。卒業見込みが出ていて就職が決まっていなかったのは僕1人だったから、先生は僕のことを待っていたんだそう。そのまま旭山動物園の就職試験を受ける手続きをしてもらって、面接は卒業式と同じ3月25日。それで、卒業式には出ず、旭川市へ行き、合格しました。
それから僕の動物園人生が始まって、今もこうして働いているわけです。
天職は英語で“Calling”ーー動物園の仕事に呼ばれていたと気づく
旭山動物園を退職する時に、僕がここに入れたのは、2年浪人したからなんだって思った。もし僕が高校の時に柔道やその他の部活をそこそこいい加減にやって、スムーズに大学へ進学できていたら、何年かに1度あるかないかの採用タイミングとは合わなかった。ということは、その2年間は全く無駄ではなかった。
もし旭山動物園が閉園の危機にならなかったら、もっといい動物園にしようと必死になることもなかった。
「旭山動物園を閉園にする予定だ」と言われた時、それまで旭川医科大学の生物学教室で続けていた染色体の研究を断念しました。「自分が旭山動物園にいるのに、閉園にしてしまったら、ここにいる意味はない、そんなのはダメだ」と思い、動物園に集中すると決断したんです。
そうして10年間、園の皆で考えいろいろな試みを行ってきたところに、新しい旭川市長が就任して、それまで積み上げてきたことを予算化してくれ、実現ができた。
「偶然と呼ぶにはできすぎている」と感じている時に、ラジオからこんな話が聞こえてきた。天職は英語で「Calling」というそうで、日本語では「呼ばれる」という意味だけど。僕は旭山動物園に呼ばれていたんだって思った。
もともと動物が大好きで、いろいろ飼って、増やすのが好きで。そうして、いまだにそういうことをやり続けているんだからね。まさに僕にとっては天職。僕は七帝柔道と動物園っていう非常に幅のせまい人生を送っているね(笑)。
今の子たちを見ていると、自分を捨てているんじゃないかと思えるようなこと多くて、どうしたんだろうと思う。目の前の好きなことを一生懸命やっていれば、何も心配することはないと思うよ。
将来何になりたいかわからなかったら、わからなくてもいい。僕だって、中学生の時にはなんとかして柔道強くなりたいとは思っていたけれど、他は何も考えていなかったよ。
将来のことがわからないと勉強に身が入らないなんてことはない。勉強はやりたいようにやればいい。ただ、勉強と自分で考えることは1:1の割合がいい。勉強は他人の考えを学ぶことであって、自分の考えを作ることではないから。
それから、これも東大柔道部の先輩に言われたことなんだけど、「ああすればよかった」と思わないくらいに一生懸命にやり切ること。徹底的に考えて決めて、もし失敗したとしたら、後戻りするのではなくて、そこからまた考え直してやってみる。負けることは意味がないことではないの。
実は、僕はこれまで柔道で1位になったことがない。その「1位になりたい、トップになりたい」という飢え、負けることが僕の原動力なのかもしれないね。
そして、人との出会いは大事だな。東大柔道部の先輩をはじめとして、旭川医科大学の生物学教室の教授、そして旭川市長……。さまざまな人に出会って、大切なアドバイスやチャンスをもらったおかげで、今の僕があるようなものだと思うよ。
取材の最後に、「円山動物園を世界レベルの動物園に。北海道の他の動物園とも協力して世界とつながる動物園を目指して、今もやってるんだ」と語る小菅さん。まだまだ先の動物園の未来を見つめるワクワクが伝わってきました。
わき目もふらず一生懸命好きなことをやり切ったからこそ天職ともいうべき道へと呼びこまれる……目の前のことに全力を尽くして進むことの大切さを体現し続ける小菅さんの姿に身が引き締まる思いでした。
(企画・取材・執筆・写真:わたなべひろみ 編集:鬼頭佳代/ノオト)
取材先
小菅正夫さん
1948年、北海道札幌市生まれ。北海道大学柔道部第65代主将。北海道大学獣医学部卒。旭川市旭山動物園に獣医師・飼育係として就職、1995年園長に就任。当時、閉園の危機にあった旭山動物園で行動展示や夜の動物園などを実現。2007年には、来園者数300万人を達成するなど、日本でも有数の動物園に育て上げた。2009年に定年退職。現在は、札幌市環境局参与として円山動物園を世界に誇れる動物園にするべく尽力している。北海道大学客員教授。
札幌市円山動物園
http://www.city.sapporo.jp/zoo/
旭川市旭山動物園
https://www.city.asahikawa.hokkaido.jp/asahiyamazoo/
※本記事はWebメディア「クリスクぷらす」(2019年12月10日)に掲載されたものです。