【大人の失敗から学ぼうVol.09】できない理由が1000個 あっても、1個のできる理由に賭ける!(菊池康平さん)

不登校

2022/08/22

さまざまなシーンで活躍する大人たちに、過去の失敗談を語っていただくこの連載。今回お話を伺ったのは、フットサルイベントなどを手がけるLarga(ラルガ)合同会社代表の、菊池康平さん。

菊池さんは10代からプロサッカー選手を目指し、世界各国のサッカーチームの門を叩き続けてきました。「道場破り」のように挑戦し続けた結果、2008年、務めていた会社を1年休職して飛び込んだボリビアのチームでプロ契約を実現。そこまでに挑戦した国は、なんと16カ国にも上ったそうです。

当然、「プロ契約に至るまでには失敗も数々あった」と話す菊池さん。そんな失敗の中から何を得ることができたのか、伺ってみました。

●お話を伺った人

菊池康平さん
Larga合同会社代表
海外でプロサッカー選手になるため、大学時代より複数の国の海外チームに飛び込みで挑戦。2008年に会社を1年休み、渡ったボリビアでプロ契約を果たす。現在は16カ国でサッカーに挑戦した経験を子どもたちに伝えながら、アスリートへの就労支援、執筆活動、講演活動などにも従事する。

不登校の経験から、プロ選手への夢がスタート

まずは、プロサッカー選手を目指し始めたきっかけについてお聞かせください。

小学生のときからサッカーをやっていたのですが、当時はまだプロを目指そうとは考えていませんでした。部活は何となく続けていたのですが、中学2年生のときに不登校になったんです。そのときに、自分のやりたいことって何だろうと考えたら、サッカーだなと思って。

不登校になった理由はあるのですか?

特にいじめなどがあったわけではなく、目標が見出せずに無気力になっていたというか……。理由は自分でもよくわからなかったですね。不登校だったのは2〜3カ月の間なのですが、親も心配していて、その姿を見て申し訳ない気持ちで過ごしていました。
自分は普通ではないのかもしれないと思ったりもしました。

でもその間に、自分を見つめ直すことができたわけですね。

はい。一度気晴らしにサッカーをしに行ったときに、自分ができること、やりたいことはサッカーだと確認できて、目標が生まれました。それで学校に戻ったのですが、しばらく休んでいたために部活には顔を出しづらく、新聞に載っていた、元Jリーガーが運営している地元のチームの門を叩いたんです。

その後、Jリーグのユースチームに入りたいと思うようになり、半年くらい頑張ってあちこちに申し込みました。6〜7チームくらい落ち続けたところで最後にFC町田のユースに拾ってもらい、高校時代はそこと、さらに移籍してもう一つのチームでプレイしていました。

後にお聞かせいただく、「道場破り」の原点となる体験ですね。

そうですね。その後、大学に進学したのですが、サッカー部はスポーツ推薦で入ってくる学生しかおらず、僕は練習生として入らせてくれと頭を下げて参加させてもらいました。

そこでは、推薦で入ってきた部員たちと自分との間に圧倒的な差があることを目の当たりにして、「ここではどう考えても試合には出られない」と思いました。でも、プロにはなりたかったんです。
 
そのときに、高校時代、シンガポールのプロサッカーリーグのトライアウトに応募したことを思い出したんです。当時はテストを受けてダメだったのですが、もう一度挑戦してみようと思い、バイトをして貯めたお金でシンガポールに渡りました。

プロへの活路を海外に見いだした、と。

このときにはアテンドしてくれる会社があり、現地でのコーディネートはお任せでした。結局プロ契約はできませんでしたが、そこでブラジルやクロアチアなど、世界各国から挑戦しに来ている選手たちと出会えたのは大きかったですね。
 
アテンドしてくれる会社を通さず、自力で各地に渡り挑戦している選手も多くいました。英語さえできれば自力で挑戦できるとわかり、僕も同じように頑張ろうと思いました。
そこからは、日本でバイトをしてお金が貯まったら挑戦のために海外へ、という繰り返しでしたね。

忙しい大学生活ですね。単位は大丈夫だったんですか?

日本ではバイトが忙しく、正直あまり授業には出られなかったのですが、テストだけは受けに行っていました。
解答用紙に、「自分はプロサッカー選手を目指していて、お金を貯めるためにアルバイトに明け暮れ、海外に行ってこんなふうに頑張っている」ということを裏表びっしり書いて提出したことも。それで「可」をくれる教授もいました。当然「不可」もありましたが……(苦笑)。

4年生のときには、残った単位を全部とろうと講義に通い、最終的には単位も余分にとりましたが、ずっと海外と日本を行き来する生活でした。

「5分じゃ何もできない」から「5分でもできること」へ

大学時代にはどんな国に行かれていたんでしょうか。

シンガポールの他には、香港やオーストラリア、タイなどですね。いずれもプロ契約には至らなかったのですが、学ぶことは多くありました。

たとえばどんなことでしょう?

どのチームも「道場破り」のように飛び込みで挑戦させてもらうので、練習試合に5〜10分くらい出場する程度の機会しかもらえないんです。最初は「数分じゃ何もできない」と思っていたのですが、そう考えていると本当に何もできずに終わってしまうんですよ。
 
何チームも挑戦しては落ちて、つまり失敗を重ねて気付いたのは、自分はできない理由ばかり探していたなということでした。
そこで、短時間でもできることをしようと、髪を派手な色にしたり、誰よりも大きな声で「ボールをくれ!」と叫んだりと、目立つ作戦に切り替えました。すると「明日も呼んでやるよ」「頑張っていたから明日も来い!」と言ってもらえるようになって、出場時間も延びていったんです。

その日できることを精一杯やることが、明日に繋がるんだと実感できましたね。

チャンスを広げるコツをつかんだわけですね。

はじめはサッカーがうまければプロ契約できると思っていたのですが、それ以外の面も大切だということがわかりました。
 
サッカーはチームプレイなので、プレイのスキルだけでなく、コミュニケーションスキルも重要なんです。コミュニケーションがとれないとチャンスの場面でもボールは回ってきません。積極的に周囲にアピールすることも、プロになるためには大切なことなんです。
 
自分はサッカーのスキルだけでは厳しいと思っていたので、「スキルは100点満点じゃないけど、面白いからチームに置いておこうかな」と思われるように頑張ろうと思いました。

大学卒業後は就職をされたそうですが、どういう考えだったのでしょうか。

親に一度、「就職活動から逃げるためにサッカーをしているのでは?」と言われたことがあって、ちょっと反抗心が湧いたんですよ。
そうじゃないというところを見せたくて、就職活動をして、株式会社パソナという総合人材サービス会社から内定をもらいました。
 
その面接で会った他の学生たちや、会社の先輩たちの話が面白かったんです。経験豊富で視野の広い人が多く、こういう人たちと働いてみたいなと思いました。

就職が決まった時点で、多くの人は学生時代に持っていた夢を諦めると思うのですが。

それが、プロになるという夢は持ち続けたまま入社を決めて、入社するギリギリまで挑戦し続けました。プロになったら内定を蹴ってそちらに行くということではなく、短い期間でもいいから、プロとしてプレイしたいと思って。
 
最後はタイのプロリーグの開幕前、合否の連絡を待ってタイの寮にいたところで、会社の内定式の日が来てしまって帰国することになりました。なので、内定式の前日まではタイにいたんです。

海外チームで練習する菊池さん

認めてもらうには、努力する姿を見せ続けること

就職後もプロへの挑戦は続くのですよね。

はい。夏期休暇などを使って海外に挑戦しに行っていました。とにかく現地に行って、練習に参加させてもらえるチームを探して1週間過ごすということを繰り返していました。
 
プロになりたいという気持ちももちろんあったのですが、このときには「今まで培ってきた行動力をサビさせたくない」「チャレンジしなくなるのは嫌だ」という思いもありました。1週間では何もできないとわかっていても、動かずにいるのは嫌だったんです。
 
そんなことを3年間やっていたら、やっぱりちゃんと挑戦したくなり、結局1年間休職させてもらい「道場破り」に専念することになりました。

よく知らない国では、苦労されたことも多かったのではないですか。

その1年間では、シンガポール、パラグアイ、ボリビアと回りました。パラグアイの滞在地では食べ物が買えるお店が近くになく、お腹を空かせることが多かったですね。
そんな環境からボリビアに移ったのですが、今度は徒歩圏内にレストランがあったので、早速食べまくっていたら、食中毒になってしまったんです。
 
食中毒で入院するところからボリビア生活が始まったのですが、逆にいい意味で肩の力が抜けて、サッカーも頑張ることができました。それで最終的にはプロ契約ができたんです。

禍(わざわい)転じて福となす、ですね。

ただ、当時のボリビアは貧しい国で、生活に余裕がないために気持ちにも余裕を持てない人が多く、チームメンバーとコミュニケーションをとるのには苦労しました。
 
シャワー中に練習着を盗まれたり、「飛行機に乗ってこんなところに来る余裕があるなら、親にいいものを食べさせろ」と言われたり。

選手たちは生活のためにサッカーを死に物狂いでやっており、裕福な日本人は何とか排除しようと、最初は冷たくされてしまいました。
ボリビアはスペイン語で、言葉もわからなかったので大変でしたね。

それでも、認めてもらうことができたんですよね。

どこの国に行っても人は人なので、一生懸命やっている姿を見せることが大切でした。めげずに一番早く練習場に行き、一番最後まで居残り練習をし、スパイクもボロボロのまま履き続けていたら、最終的にはみんなで少しずつお金を出し合って「これでスパイクを買え」と言われました。

それは受け取りませんでしたが、自分のことを認めてもらえたと実感できましたね。

それでやっと夢が叶ったと。プロ契約後はどうなったのですか。

ところが、プロ契約をして試合に出る前に、休職期間のタイムリミットを迎えました。プロ選手になり、満員の観衆の前でプレイすることが夢だったのですが、その半分は叶い、半分はいつか叶えようと胸にしまい帰国しました。
会社にはわがままを聞いてもらっていたので感謝の気持ちで一杯でした。そこからは、復職して会社に貢献すべく仕事に打ち込みました。

ボリビアのチームでプロ契約が叶った

「できない理由」ではなく「できる理由」を探して動こう!

これで話が終わりだと思いきや、菊池さんの場合、まだ続くんですよね……。

そうなんですよ。復職して4〜5年働いて、32歳の年に、「身体が動くうちにもう一度チャレンジしたい」と考えるようになり、退職することに。会社のみなさんには応援してもらい、円満退社して、ラオスやカンボジア、インドなどに渡ることになるんです。

夢はまだ半分しか叶っていなかったですからね。

はい。ところが、思っていた以上に体力が追いつかなかったんです。サラリーマンをしながら少しフットサルをやっていたくらいの僕と、毎日灼熱の中でプレイしていた現地の選手たちとでは、雲泥の差。
 
実力的に不利な中でもアピールをするすべは身についていたのですが、サッカーのスキル以前に体力が追いつかないんです。
20代で挑戦していた時代とは違い、iPhoneなどスマホが出てきて、それを使って情報を得ることができるようになり、道場破りをしに行くこと自体もラクにはなっていたのですが……。
 
そんな中、ラオスで犬に襲われて、狂犬病の注射を打つために帰国することになったり、インドでネズミかダニに噛まれてその毒で死にかけたりという体験をしました。これはサッカーの神様が「向いていない」とメッセージを送ってきたのではないかと思いましたね。

そこで道場破りに区切りがついたのでしょうか。

体調が戻ったらチャレンジしたいという思いはあったのですが、無職になったので、とにかく生計を立てるために次の人生を歩き始めました。子どもたちにこれまでの経験をお話しする講演会をしたり、文章を書いたり、就職していたパソナから仕事をいただいたり。
 
実はその間も、1週間や1試合だけの短期の契約を掴むべく海外チームで練習に参加させてもらったりということはありましたが……。

ボリビアのサッカーチームと契約、取材を受ける菊池さん

どうしても、サッカーからは離れないのですね。

サッカーを通じて見えたこと、出会えた人は多く、今はこの経験を次の世代に還元するために、サッカーをメインとしたコミュニティを作りたいと思うようになりました。それで会社を作り、今はフットサルイベントなどを手がけています。
 
本当は、海外に挑戦したいという若者が短期留学できるようにサポートする事業をメインに考えていたのですが、コロナ禍になってしまったので、それは今後の挑戦ですね。

夢を持っている若者たちに、どんなことを願いますか。

SNSを通じて、海外でプロになりたいという人からたくさんの相談が来るんですよ。でも、質問を重ねてくる人ほど、実際には行かないんです。本当に行く人は、1〜2回質問してきただけで、すぐに行動に移しています。

行かないケースというのは、「できない理由」を積み上げているのではないかと思うんですよね。

石橋を叩き過ぎて動けなくなってしまっている、と。

でも、行ってみないと何も始まらないし、わからないじゃないですか。「僕は海外で通用すると思いますか?」と聞かれることもありますが、それは本人がやってみないと、僕にはわかりません。
現地の環境に適応できるのかなども重要で、サッカーがうまいだけでプロになれるわけではないですからね。

ですから、「できない理由」を考えるのではなく、「できる理由」を考えて動いてほしいんです。

菊池さんも、最初の失敗の理由は「できない理由を考えていた」からでしたね。

僕の場合、プロになれない理由は1000個くらいあったんですが、どうにかできる理由を探してプロ契約ができました。
みなさんにもできる理由を探してほしいし、僕自身、今後もそう自分に言い聞かせて前に進んでいきたいと思っています。

力づけられるお話です。ありがとうございました。

<取材・文/大西桃子>

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この記事を書いたのは

大西桃子

ライター、編集者。出版社3社の勤務を経て2012年フリーに。月刊誌、夕刊紙、単行本などの編集・執筆を行う。本業の傍ら、低所得世帯の中学生を対象にした無料塾を2014年より運営。