不登校、行きたくない理由が「わからない」は国語力低下が関係している?
専門家に聞く
不登校
2022/12/07
不登校の理由が、自分でもわからない。うまく説明できない。年々不登校児童・生徒が増え続けている今、そんな話をよく耳にします。
文部科学省の調べによれば、不登校の理由として最も多いのは、「無気力・不安」で、不登校児童生徒の46.9%が回答しています(「令和2年度 児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果について」より)。
なぜ気力がわかないのか、何がどのように不安なのか、本人にもよくわからず、漠然とモヤモヤした気持ちを抱えている子が多いのかもしれません。
一方、OECD(経済協力開発機構)が各国の15歳の子どもを対象に3年ごとに実施している学力調査「PISA(生徒の学習到達度調査)」では、日本の「読解力」は2015年に8位だったところ、2018年には15位と、大きく下がったことが話題になりました。
今、日本の子どもたちは、言葉にして自分の気持ちを伝える力や、文章を読み解く読解力といった力が低下しているのでしょうか? そうした力を上げていくことができたら、漠然とした生きづらさを抱える子どもは少なくなるのではないでしょうか。
今回は、『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(文藝春秋)の著者、ノンフィクション作家の石井光太さんに、子どもたちの国語力についてお話を伺いました。
●お話を伺った人
ノンフィクション作家
1977年東京生まれ。作家。国内外の貧困、災害、事件などをテーマに取材・執筆活動を行う。著書に『遺体 震災、津波の果てに』(新潮社)、『「鬼畜」の家 わが子を殺す親たち』(新潮社)、『格差と分断の社会地図 16歳からの<日本のリアル>』(日本実業出版社)など多数。近著に『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(文藝春秋)がある。
国語力とは、自分の世界を構築する力
――『ルポ 誰が国語力を殺すのか』では、子どもたちの国語力がなぜ、どのように奪われているのか、あるいは本当に今の子どもたちの国語力は低下しているのかといったことを、さまざまな取材を通して考えさせられる内容になっています。
中でも気になったのは、子どもたち同士での言葉のやりとりの中で「ウザい」「ヤバい」など単純なセンテンスのみで会話が進んでいくことにより、意思疎通における齟齬が生じてトラブルに発展してしまうという話や、不登校の子どもが学校に行きたくない原因や、自分がどうしてほしかったかを言語化できていないという話でした。
こうした子どもたちに必要だと考えられる国語力とは、そもそも何なのでしょう。
文部科学省の定義によれば、国語力とは「考える力」「感じる力」「想像する力」「表す力」の4つを中心とする力となっています。その4つの力のベースとなるのが語彙力ですが、これは年齢とともに発達していきます。
語彙をベースとして国語力を使いながら、子どもたちは自分なりに物事を考え、自分の世界を構築し、それを表現していくようになります。
――学校の授業で作文などの文章を書くのが苦手だとか、テストの読解問題が解けないなど、国語という科目の評価や点数の話ではないということですね。
学校の国語という科目で問われるのは、国語力の一部です。漢字を覚えたり、読解問題を解いたり、古文を読んだりというのは、国語力を上げる方法の1つに過ぎません。
本来の国語力は、言語を使って考え、感じ、想像し、表すといったことを通じて、困難を打破したり、社会の中で人と支え合ったり、目標を実現したりすることに使うものです。
――そう考えると、PISAにおける日本の子どもの読解力の順位が下がったことだけをもって国語力が低下しているとは言えないのかもしれませんが、実際のところはどうなのでしょう。
きちんとデータを出すことは難しいのですが、取材を通して感じたのは、子どもたちの国語力は低下しているのではなく、二極化しているということです。
いわゆる偏差値の高い高校や大学に聞けば、子どもの国語力の低下は感じていないという教授・教員が多いのですが、教育困難校と言われる偏差値40台前半以下の高校の教員などは、国語力の低下を感じていると言います。
中間層が少なくなり、格差が開いているのではないかと思いますね。
――そして、国語力が低くなっている子どもたちの間では、社会で生きるうえでさまざまな問題が生じてくる、と。
言語で的確に表現や思考ができないことによってトラブルが発生することもありますが、そうしたやや極端な例だけでなく、生きづらさを抱えていくことになっていきます。
今、多くの企業が求める人材は、「コミュニケーション能力が高く、主体的に物事を考えて動ける人」です。そのため、就職の幅が狭まってしまうこともあります。
また、比較的国語力を求められない仕事に就いたとしても、以前ならその中で似たような人が集まって人間関係を築いて仲良く働けていたところ、そういう場に外国人労働者が流れ込んできたことにより、コミュニケーションが複雑化して居場所を失う人も出てきています。
たとえば、昔ならヤンキー自慢をしていればコミュニケーションが成立していたような場所でも、外国人の中に日本人が数人という状況になれば、そんな自慢も通用しない、という感じです。
――ただ国語力が二極化しているだけでなく、社会が複雑になってきたことで、国語力の低い子がより生きづらくなってきているんですね。
ライフスタイルの多様化も、国語力が身につけにくくなる背景に
――では、国語力が低くなってしまっている子の場合、その理由はどんなことが考えられるのでしょうか。
まず、学校の教育において、子どもたちに求められることが増えています。英語教育は小学校から必修化され、さらにプログラミング教育も始まっています。
これらは今の時代を生きていくためには必要だとは思うのですが、やることが多すぎて子どもたちがついていけていない状態があります。
――学習指導要領が大きく変わっても、全員がついてこられるように少人数学級制にする、教員が生徒たちをしっかり見られるように業務負担を減らすなど、学校の制度改革が進んでいればまだ良かったのかもしれませんね。現状は、子どもも学校も、ただ負担が増えただけですから……。
さらに、子どもたちのライフスタイルが多様化してきていることも、国語力が身につきにくい環境の子がさらに不利になってしまう背景となっています。
学校の同じ教室の中には、両親が揃っていて教育にじゅうぶんにお金をかけてもらえる子どももいれば、シングル家庭で大人との会話が日常的に少ない子ども、家に本棚がない子どももいます。
親が家にいても、スマートフォンばかり触っていて会話が少ない家庭もあれば、そうでない家庭もある。親戚や親の友達がよく家に来る子もいれば、親以外の大人が誰も来ない家もある。
子どもたちの中では、「自分にとって当たり前の生活が、隣の子にとっては違う」という状況が広がっています。
その違いを埋めるために、より国語力が必要となっているのですが、そこまで高い国語力を求められることについていけず、生きづらさを抱えることになってしまう。
――ある意味、言葉による他者とのコミュニケーションを諦めざるを得ないような状況に追い込まれてしまっているように感じます。
ある短大に取材に行ったとき、学生が講義の中で率直な意見を求められて、「人前で自分が思っていることを言ってもいいんですか?」と聞いていたんですよ。
話す機会を求められたとき、自分が思ったことを言うのではなく、読書感想文のように大人たちが納得するお手本のような答えを言ったほうがいいのでは、と考えてしまうわけです。
自分なりに物事を捉えて表現するよりも、一般的な答えを求めるようになってしまっているんですね。
ライフスタイルの多様化が進み、情報があふれ、選択肢が増える中で、子どもたちの普段の生活も考え方も、将来の選択も、みんなバラバラになってきています。そのことになかなか気づけず、自分の考えよりも「みんなの答え」を探してしまうんです。
――社会の複雑化が進んだことで、より一般化されたものを求めてしまうというわけですか。そして、自分はどうかと考える力が奪われていってしまう、と。
自分とは異質な相手一人ひとりと言葉を交わし、それを受け止めてまた言葉で返すといった訓練がじゅうぶんにされない環境になってしまっているんですよ。
本当に必要な国語力は、放課後の時間や宿泊行事で数人の仲間といろんな話をすることなどで磨かれていきますが、コロナ禍以降はそうした機会も減らされてしまっている。
そうした背景が絡み合って、たとえば不登校になっても「なぜ学校に行きたくないか」「学校がどうだったら行こうと思えるのか」を説明できなくなってしまうんですね。
――そもそも子どもたちが生きづらい環境になってきているうえに、その生きづらさを表現する国語力を身につけられる機会も減ってきて、さらに生きづらくなるという負のスパイラルがあるわけですね……。
「カッコいい」から自分の世界を広げていこう
――この複雑な社会を生きていくうえでは国語力が欠かせないわけですが、現状、生きづらさを抱えている子どもたちはどうしたらいいのでしょうか。国語力を身につけろ、といってもすぐに身につくとも思えません。
まずは、自分が「カッコいい」と思えることを大切にしてみることですね。ゲームでも音楽でも、ギャルでも、何でもいいんです。「あの人カッコいいな」「この世界、カッコいいな」と思えることに集中すればいいと思います。
社会全体に認められようと思う必要はなく、自分がカッコいいと思える世界で、価値観を共有してくれる人や自分を認めてくれる人を見つけて、関わっていくこと。その中で、「自分はこれが好き」「こうなりたい」という言葉を見つけていけばいいと思います。
――親が心配して、「あれはどう、これはどう」と、夢中になれそうなものを勧めるケースもありますが。
だいたい、それは逆効果になります。子どもには、子どもにしかない「カッコいいセンサー」があると思うんですよ。大人になると忘れてしまうけれど、ちょっとしたことでも「カッコいいな」と思ってマネしてみるというのは、子どもにはよくあることです。その延長でいいんです。
――それは、インターネットの世界でもいいのでしょうか。SNSなどを使った短いセンテンスだけのやりとりや、直情的なやりとりなどは、国語力を低下させる一因にはなりませんか。
ネットのやりとりでもいいんですよ。むしろ、リアルの場で生きづらさを抱えている子にいきなり、「リアルの場でカッコいいを追求しろ」と言ってもハードルは高いですよね。リアルもネットも関係なく、自分がカッコいいと感じることから世界を広げていけばいいと思います。
――保護者は何もすることはない、と。
あえて言うなら、大人はもっと自分自身が楽しい、面白いと思うことを追求することですね。仕事を面白がってやっていない大人を見ても、子どもはカッコいいとは思いませんし、「仕事なんてやりたくないな」と思ってしまいます。
子どもが見て、マネしたくなるような大人が近くにいれば、子どもはそれを見て自発的に何かをやってみようと思えるんです。
――子どもをどうにかしようとあれこれ画策する前に、自分自身がいろいろなことを面白がる余裕を持つことが大切なわけですね。ありがとうございました。
<取材・文/大西桃子>
この記事を書いたのは
ライター、編集者。出版社3社の勤務を経て2012年フリーに。月刊誌、夕刊紙、単行本などの編集・執筆を行う。本業の傍ら、低所得世帯の中学生を対象にした無料塾を2014年より運営。