ツールが変われば伝え方も変わる――論理の専門家に聞く、誤解や偏見を生み出さない考え方

専門家に聞く

2019/08/27

さまざまな価値観が可視化された現在。違いを認め合うコミュニケーションはますます重要になっています。

しかし、誤解や偏見が生まれたり、理解し合うのを諦めたりすることもあるでしょう。なかには、「国語力が足りていない」「論理的な話し合いができない」という意見も。ひょっとすると、すれ違いの原因は「論理力」にあるのかもしれません。

今回は『ナンバ先生のやさしくわかる論理の授業 ―国語科で論理力を育てる』(明治図書出版)の著者である広島大学の難波博孝(なんば・ひろたか)教授に、論理力とコミュニケーションの関係性について聞いてきました。

すれ違いの原因は「論理」ではなく「表現」にある

筆者と、広島大学の難波博孝教授(写真右)

――コミュニケーションが上手くいかない原因の一つとして、論理力の低さが指摘されることがあります。果たして、その指摘は正しいのでしょうか?

「相手とどうコミュニケーションをとるか」は、私たちにとって永遠のテーマです。コミュニケーションの難しさは、今に始まったことではなく、昔から言われています。

実は若者も中高年もみんな、論理的なコミュニケーションを図っているんです。では、なぜギャップが生まれるのか。その原因の一つは、使っているツールの特性に合ったコミュニケーションができるか、できないかにあるのだと考えています。

――すれ違いの原因は論理力ではなく、ツールにあるということですか。

そうですね。コミュニケーションツールは、手紙の時代が長く続き、次に電話が登場するという変遷をたどってきました。その後、メールが一般化し、現在ではソーシャルメディアやチャットアプリなどが普及しています。

それぞれのツールには、独特のコミュニケーションルールがあります。これは、武道の「間合い」のようなものです。

たとえば、本題の前にワンクッション入れたり、定型的なあいさつを省いたり。LINEには独自のコミュニケーションがあり、若者はそれを使いこなしています。

しかし、電話やメール世代の大人たちにはそのルールが分からない。ですから、そもそもそのツールでのコミュニケーション自体がとれないか、とれたとしてもコミュニケーションルールが分かっていないため、ギャップが生じてしまうのです。

――新しいツールに乗り換えできない「保守性」とでも言うのでしょうか。

たとえば、若者を中心に広まりつつあるQRコードを使った決済も、中高年にはなかなか普及していません。コミュニケーションツールも同様です。若者と中高年に共通するツールがないこともすれ違いの原因の一つでしょう。

――SNSなどの新しいツールに中高年たちも慣れる必要がある、と。

そうですね。また、これらのツールは使い方が確立されていないため、齟齬(そご)も生じやすい。コミュニケーションを重視するなら、学校でLINEでのコミュニケーションの授業をしていくべきですが、実際にはほとんどありません。 一方で、手紙は書き方が確立していますし、電話の対応もマナーとして捉えられています。ビジネスの場では、メールもある程度の型が決まっています。

コミュニケーションのコツは、ツールごとの使い分け

――さまざまなコミュニケーションツールと論理力は、どう関連するのでしょうか。

世代を問わず、コミュニケーションにおいては論理力が使われています。ただし、表現の仕方は目的や相手、ツールによって変わります。

たとえば、「お腹が空いたから、ラーメンを食べたい」は理由と思い(主張)がつながり、論理が通っています。しかし、相手が友人なのか目上の人なのか、ツールがメールなのかLINEなのかによって、その伝え方はそれぞれ異なりますよね。

――一方で、リアルな社会でのコミュニケーションも存在します。

今の若者は社会に出れば、「即戦力」になることを求められる。そのゆえに、環境に順応するための時間が足りていないのかもしれません。本当はコミュニケーション能力があるのですが、中高年と表現手法が違うのです。間合いがずれているとも言えます。だからお互い相手が見えない。

若者と中高年がコミュニケーションを取るには、共通のプラットフォームが必要です。そのためには上の世代、中高年が変わるべきです。

――私たちがコミュニケーションに難しさを感じるのは、論理力に原因があるわけではないのですね。

はい。論理ではなく、表現が難しいのです。もっとも大切なのは、時や場所、状況、相手、ツールによって表現を変えること。「論理をそのまま表現すれば、相手に伝わる」というのはまったくの誤解です。直接的に表現するのは、必ずしもいいことばかりではありません。

アメリカや中国では直接的な表現が使われていると思う人が多いですが、これは間違いです。むしろ、彼らは相手をしっかり観察して、発言しています。英語や中国語での相手との関係性を示す敬語表現もとても難しく、日本語と変わりません。

コミュニケーションの鍵は、「感情」?

――では、論理をどうコミュニケーションに生かしたらいいのでしょうか。

論理的に「思考」すればいいのです。それはつまり、自分の感情を置いて物事を考えることを指します。

先ほど例に挙げた「お腹が空いたから、ラーメンを食べたい」には、「お腹が空いた」「ラーメンを食べたい」という感情も入っています。論理的に思考する時、まずそうした感情を横に置きます。そして、近くにラーメン屋があるか、お金はあるかなどの状況を洗い出した上で、何を食べるのか考えるのです。

――感情よりも論理が大事ということですか。

いいえ。論理の起点は感情にあり、論理と感情は分けられません。だからこそ、ときには感情を置いて思考することが大切なのです。

――感情と論理、両方を大切にするにはどうすればいいのでしょうか?

たとえば、誰かの提案を「いやだな」と感じたとします。その感情を大切にしながらも、まずなぜそう感じるのかを冷静に考えるんです。その上で「やらないほうがいい」と判断ができたら、自分の感情も論理もOKですね。

そして、次に考えるのが表現方法。相手や状況、ツールなどを考えた上で、上手く伝わる方法を探していきます。このように「感情→論理→表現」の順番で考えましょう。

――論理的思考や表現の出発点は、感情なのですね。

その通りです。ところが、感情の存在を忘れてしまう人が多いのです。感情を押し殺したまま、論理的に考えたり、表現したりするから苦しくなる。「いやだな」という感情を客観的に捉え、その時に「この人に逆らうと面倒だから、いやと言わないほうがいい」と論理的に考えたのなら、「大賛成です」と表現してもいいんです。

だから、最初に感じた「いやだな」という思いを持ったままでいいのです。もしその感情を伝える時は、ここでもどう表現するかが大切です。「大反対です!」と言い切るのではなく、「私は少し異なる思いがあります」とやわらかい表現にするなど。

――感情を押し殺す必要はないんですね。なんだか気が楽になってきました。

感情・論理・表現の3つを大事にしていけば、そんなに苦しまなくていいと思います。ただ、「感情を押し殺してしまう人」や「感情のままに表現する人」、「感情と論理ができていても論理のまま表現する人」などさまざまな人がいます。そうした人たちとのコミュニケーションに難しさを感じることもあるでしょう。

そこで大切となるのは、相手や状況に合わせて表現を変える力。それは日本であれ、外国であれ変わりません。

――表現を磨いていくにはどうすればいいのでしょう。

表現は、状況による使い分けが大切です。リアルな場での表現とLINEでの表現はまったく違いますよね。それぞれの場やツールに合わせた表現をする必要があるのですが、そこは双方が教え合う必要があります。

メールや電話でどうコミュニケーションをとるのかを教えれば、若者はしっかり理解してくれます。逆に、中高年はLINEの使い方を若者に教えてもらわなければならない。

――LINEのコミュニケーション手法を会議室でやってはいけないということですよね。

LINEとメールにも違いがありますし、会議は誰がいるかで表現が変わります。そこは経験を重ねて学んでいくものですが、上の人たちはできるだけ教えてあげる必要があります。

たとえば、私の研究室に入ってきた学生が「先生、この絵本を貸してください」とお願いする際には、「自分が誰で、何の目的のために来て、その絵本を何に使うのか」をはっきり伝えなければなりません。それは大人が教えるのです。

一方、親しい友達には「絵本貸して」とLINEするだけです。「●●さん、〇〇のために絵本を貸してください」とは書かない。そんなことをすれば、「どうしてそんな他人行儀なことを言うの」と不審がられます。

若者にすれば、私の研究室に入ってきて「先生、この絵本貸してください」と言うのは親近感の表れなんです。しかし、伝えるべきことはしっかり伝えなければならない。若者も「なかなか経験できないことを教えてもらっているのだ」という意識を持ってもらえたら嬉しいです。自分の表現手法を広げていく場なのですから。

(取材・執筆:堀行丈治/ぶるぼん企画室 撮影:廣瀬佑太 企画・編集:野阪拓海/ノオト)

取材先

難波博孝さん

広島大学副理事、大学院教育学研究科教授、博士(教育学)。1958年兵庫県姫路市生まれ。1981年に京都大学大学院言語学専攻修士課程を修了。私立報徳学園中学校・高等学校に奉職後、国語教育を研究するために退職。神戸大学大学院教育学研究科修士課程国語教育専攻に入学、浜本純逸先生のもとで勉強する。修了後、予備校教師、愛知県立大学文学部児童教育学科を経て、2000年から現職。

※本記事はWebメディア「クリスクぷらす」(2019年8月27日)に掲載されたものです。

この記事をシェアする