【大人の失敗から学ぼうVol.12】発達障害は逆転の発想で強みに変わる!(ココトモファーム代表・齋藤秀一さん)
先輩に聞く
2024/11/06
さまざまなシーンで活躍する大人たちに、過去の失敗談を伺うこの連載。今回お話をお聞きしたのは、子どもの頃から周りとうまくいかず、学校にもなじめなかったという、株式会社ココトモファーム代表の齋藤秀一さん。
「周りの人と違う」ことに不安を抱き、子ども時代には不登校を経験。社会人になってからも居場所がなく、転職を繰り返したという齋藤さんですが、自分の特性をプラスに活かすこともできると気づき、IT企業を創業。さらに障害者福祉施設を運営する企業も立ち上げ、現在は愛知県で農業と福祉を連携する株式会社ココトモファームを運営しています。
齋藤さんが、自身の生きづらさが発達障害に起因していることに気付いたのは、社長になってからだと言います。自己否定感に苛(さいな)まれていた少年時代から、どのように起業家としての道を切り開いていったのでしょうか。詳しく伺っていきましょう。
発達障害で周囲となじめず、学校生活は苦難の日々
—— まずは子ども時代の話から伺っていきたいと思います。小さい頃から、周りの環境に馴染むのにご苦労されたとか。
齋藤さん:保育園の頃から、友達の輪の中に入るのが嫌でした。人がたくさん集まっているところが苦手で、親戚の集まりから脱走して、自宅まで1時間かけて歩いて帰ってきたこともありました。小学校では不登校も経験しましたが、運動会や林間学校、修学旅行などは行きたくないと言っても親の送迎で行かされて、つらかったですね。塾にも入れられたのですが、親に送られて塾に着いたら、行ったフリをしてすぐに別の場所に行き、時間をつぶしてから帰っていました。
—— 学校の授業でも、困りごとはあったのですか?
齋藤さん:体が揺れてしまって、椅子にじっと座っていられないんですね。先生が話していても、頭の中でいろいろなことを考えてしまって、話に集中できず、理解が追いつかなくなってしまうんです。先生が黒板に書いた文字をノートに写そうとしても、横の人の動きに意識がいってしまって、遅れてしまう。片付けができず、机の中もぐちゃぐちゃです。そもそも字を書くのが苦手で、原稿用紙の枠の中に決められた文字を書くだけでも、すごく時間がかかってしまうんです。
—— 板書だけでも大変だったんですね。
齋藤さん:人とコミュニケーションをとるのも苦手で、同級生たちから「じろじろ見るな」とか「気持ち悪い」と言われてしまっていました。小学生の頃はプロレスや野球が人気だったんですが、その会話の輪にも入れず、休み時間は一人で座っていたり、一人で校庭に出て石を拾ったりしていました。運動も苦手で、キャッチボールやドッジボールもできなかったんです。
—— 学校の中で一人で過ごすのは、居心地が悪いですよね。
齋藤さん:だから、行きたくなかったですね。中学生になると自我が芽生えて、周囲と自分とを比較するようになりました。すると、「他の子はできるのに自分はできない」という劣等感が生まれました。僕は中学生になってもまだ自転車に乗れず、補助輪が外せなかったんです。そういうこともあっていじめにも遭いました。
—— つらい毎日を想像してしまいますが、そんな中でも好きなことはあったんですか?
齋藤さん:自転車には乗れたほうがいいだろうということで、親に新聞配達をさせられたんです。そのおかげで自転車に乗れるようになり、そのアルバイト代をお小遣いにして、カシオのポケットコンピュータを買いました。これにハマって、英語は学年最下位のレベルだったのに、プログラミングのBASIC言語を組めるようになったんです。
—— IT系の知識やスキルは高かったということですね。
齋藤さん:好きなことにはものすごく集中できたんです。でもそれを何かに活かせるとはまだ考えていなかったですね。高校生になるとさらに「変なやつ」として目立ってしまい、学校でのストレスが溜まっていきました。反抗期もあって親に反発するようになり、怒鳴ったり、壁を叩いたりするようにもなりました。そんな中で安心できる時間となっていたのが、ゲームをする時間でした。
—— 今の子どもたちも、ゲームが安息の時間になっている子は多いと思います。
齋藤さん:僕は大人になってからADHD(注意欠如・多動症)と診断されるんですが、ADHDは頭の中でいろんなことを考えてしまって、落ち着けないんです。でもゲームをやっているときには気持ちが安定し、ストレスも発散できました。ゲームがなければ、すぐに自殺や自傷をしようと考えてしまっていたのですが、ゲームの時間だけは大丈夫でした。
—— そこまで追い詰められてしまっていたんですね。
齋藤さん:そんな高校生活なので、大学受験には失敗しました。すると発達障害の二次障害のような形で、「常に人から見られている」「悪口を言われている」感覚が生まれるようになりました。道を歩いている人が、悪口を言っているのが聞こえてくるんです。希死念慮も強くなり、自分は生きている価値がないと考えるようになりました。
転職を繰り返すも、マインドチェンジで人生が一変
—— 高校卒業後は、いろいろなお仕事を経験されたとか。
齋藤さん:最初は、親にお寺に入れられたんです。でも2カ月で脱走して、家も飛び出して、母方の祖母の家に転がり込みました。それからは、働かないと食べていけないのでいろいろなアルバイトをするのですが、どれも長続きしませんでした。どこに行っても悪口を言われているように感じ、居づらくなってしまうんです。そんな中、親のつてで、土木系の会社で作業員として働くことになりました。
—— ご両親もいろいろと考えていらっしゃったんですね。
齋藤さん:父は会社を経営していて、最終的には「うちの会社で働け」と言ってくれていました。ですが、その前に親の紹介でまず入った土木作業員の仕事が超ブラックだったんです。当時はヤンキー上がりの人が多く、怒鳴られたりスコップが飛んできたり。月に3日くらいしか休みがなく、毎日疲労困憊です。現場から帰ってくると職場のみんなで食事をするのですが、そのときに「親のコネで入ったボンボン」として扱われるのもつらかったですね。そのときに、「社長の息子なのに大学に進学できないなんて“スーパーバカ”」と言われたんです。
—— 心ないひと言ですね。
齋藤さん:父は当時僕に、「人生は学歴ではない」と言い聞かせてくれていました。その言葉に救われる気持ちもありつつ、でも自分だけならともかく、親も悪いように言われるのは許せませんでした。普段ならイヤなことを言われても聞こえないふりや寝たふりをしてやり過ごしていたのですが、このときはカチンと来て、反発心が芽生えました。これが24歳のときです。
—— それが、人生が変わるきっかけとなったわけですか。
齋藤さん:はい。「何くそ」という気持ちが自立につながっていったんです。土木の仕事は好きではないし向いてもいないので辞めて、一生に一度の人生だから、自分の好きなことで頑張ろうと転職をしました。中学生の頃からコンピュータが好きだったので、パソコンショップで勤め始めたんです。
—— それが今から30年くらい前ですね。当時はパソコンを使う人は限られていたのではないでしょうか。
齋藤さん:パソコンショップは、いわゆる「オタク」と言われる人が集まる場所でしたね。そこが僕にはとても心地良かったんです。それまでは「変なヤツ」と言われ続けてきましたが、パソコンショップに集まるのはみんな「変なヤツ」なので、誰も僕を攻撃せず、受け入れてくれるんです。居場所があると感じました。そんな中で、自分のことばかりでなく、「人のために何ができるか」を考えられるようになったんです。
—— それまでは「自分はダメだ」と、自分のほうに意識が向いてしまっていたのが、変わったんですね。
齋藤さん:父からも、「人からどれだけのことをしてもらうかではなく、どれだけのことをしてあげられるかが大切だ」と言われていました。それまでは親にも反発ばかりしていましたが、この父の言葉についてもじっくり考えるようになりました。以前は「どうしたら人に好かれるか」を考えて愛想笑いばかりしていたけれど、そうではなく「どう見られてもいいから人の役に立ちたい」と思えるようになったんです。自分が得意なことなら、人の役に立てるかもしれないとマインドが変わっていきました。
—— パソコンショップでの仕事はうまくいったんですか。
齋藤さん:まず、自分が得意なことをうまく活かして仕事をするようになりました。文字を書くのは苦手ですが、ブラインドタッチは得意ですし、頭の中で計算するのは苦手でもExcelは使いこなせます。目標管理も写真やグラフを使って視覚的にわかりやすいものを作り、整理整頓が苦手でも情報をパソコンで管理して、検索すればすぐ出てくるようにすればいいと、工夫していきました。そうするうちに、入社1年でトップセールスを記録して、店長になれたんです。
—— ものすごい変化ですね。
齋藤さん:今までは表舞台に立つのは苦手だったのですが、このときは自分の行動が認められたのがすごく嬉しかったですね。売り上げも店長になってから前年比120%となり、2年前に“スーパーバカ”と言われた人間が、今度は“スーパー店長”と言われるようになったんです。すると、物の見方がまた変わり、今まで自分ができなかったことを部下がやってくれるのを見て、「自分はダメだ」と思うのではなく、「みんなすごいな」と心の底から思え、尊敬や感謝ができるようになったんです。
—— 自分のマイナス部分に目を向けるのではなく、他の人のプラスの部分に目が行くようになったんですね。
齋藤さん:自分の得意・不得意を考えて、得意を活かすよう行動していくことで、人生が好転していったんです。その後、自分はITの世界に救われたこともあり、障害福祉業界で使うシステムを開発する会社を立ち上げました。以降、障害のある子どもたちのための居場所となる施設を運営する会社や、農業と福祉を組み合わせて事業を展開する会社を立ち上げてきました。
—— ものの見方が変わるだけで、そこまで大きく人生が変わるとは驚きです。
発達障害の特性は社会に出れば武器になる!
—— 齋藤さんが子どものときには、発達障害はほとんど知られていませんでした。自力で自分の特性を理解してここまで歩んでこられたわけですね。
齋藤さん:そうですね。発達障害と診断されたのは起業した後で、49歳のときでした。パソコンショップで店長になるまでは、苦手なことを直そうといくらがんばっても普通以下という感覚になってしまい、できないことでストレスを溜めて、ときには人のせいにしてしまうこともありました。でも、そうして転職を繰り返す中で社会が見えたり、さまざまな業種のことを知ったりすることもできたと思っています。
—— 特性があることで周囲の人と馴染めない子や、学校生活に不安を抱えている子は多いと思います。何かアドバイスをいただけますか。
齋藤さん:発達障害の有無に関わらず、人には向いているもの、向いていないものがあります。苦手だと感じることがあったら、逆転の発想をしてみるとよいと思います。僕の場合は、忘れっぽいところがありますが、言い換えれば気持ちの切り替えが早いということです。忍耐力はないけれど、ダメならすぐに見切ることができます。落ち着きがないことは、行動力があるということです。人と違うことをマイナスにとらえるのではなく、どうしたらそれをプラスに活かせるかと考えると、見えるものが変わってきます。
—— 今は発達障害と診断される人も増えていますが、診断によって特性がわかれば、プラスにとらえやすくなりますね。
齋藤さん:実際、世の中には、発達障害のある人が活躍している例はいくらでもあります。俳優のトム・クルーズさんも読字障害があることを公表していますが、台本は音声で覚えているんですね。苦手なことがわかれば、違う方法でカバーしながら、得意なことを伸ばすことができるんです。とは言っても、今現在学校に通っている子たちだと、困難を感じることは多いですよね。学校はみんなと同じことをしなくてはいけないので、苦しいと思います。でも、社会に出てからは、人と違うことはいくらでも強みにすることができます。むしろ、違うことを磨くほうが、圧倒的に有利になるんです。
—— 学校や社会も、そういう事実を受け入れていく必要があるのかもしれません。
齋藤さん:はい、みんながお互いに違いを認め合う社会になるとよいと思います。僕自身、発達障害を理由に「ダメな人間」とレッテルを貼られてしまったり、自分自身がそう思い込んでいたりしたときには、自分を認めることができませんでした。障害を消そうともがいても、それは自分自身の存在を消すことにつながってしまいます。人と違う部分があっても、それを尊重し合うことができればいいですね。
—— 今後、世の中がどのように変わればいいなと思いますか?
齋藤さん:一番大切なのは、さまざまな人の居場所をつくることです。居場所というのは、人から必要とされたり、人にほめられたりする場所です。それぞれが自分のできることで役割を持ち、できないことがあっても互いに補い合っていける場所がもっとできればと思っています。ココトモファームではその思いから、農業と福祉を連携させ、生産から販売まで多様な人が活躍できる仕事を生み出しています。
—— どんな人も生き生きと活躍できる会社、素敵ですね。ありがとうございました。
取材協力
株式会社ココトモファーム代表
齋藤秀一さん
不登校だった少年時代、転職を繰り返した社会人生活を経験した後、自分の特性を活かして2001年にITシステム開発会社の株式会社ネットアーツを創業。児童発達支援・放課後等デイサービス事業者などに施設運営システムHUG(ハグ)を提供する。2015年、障害福祉施設を運営する株式会社まなぶを創業。さらに2019年、愛知県犬山市で農業と福祉を連携するための農業法人・株式会社ココトモファームを創業する。 著書に『発達障害でIT社長の僕』(幻冬舎)。
<取材・文/大西桃子>
この記事を書いたのは
ライター、編集者。出版社3社の勤務を経て2012年フリーに。月刊誌、夕刊紙、単行本などの編集・執筆を行う。本業の傍ら、低所得世帯の中学生を対象にした無料塾を2014年より運営。