どうすれば能楽師になれる? 川口晃平さんが伝統芸能の世界に飛び込んだワケ
先輩に聞く
2017/07/04
能楽とは、室町時代から続く日本の伝統芸能のこと。能面と呼ばれる仮面をつけて謡(うた)って舞う音楽劇だ。能楽師はその能楽を演じる人。一体どんな修業をすれば、能楽師になれるのだろうか?
大学卒業後に能楽の道に進んだという川口晃平さん。どうやって能楽師になったのかお話を聞いた。
憧れの能楽師に誘われて能楽の世界へ
――まず、能楽とはどういうものなのか教えてください。
能は室町時代に観阿弥・世阿弥父子が作り上げた歌舞劇です。舞台には、登場人物を演じるシテ、ワキ、狂言と、合唱を担当する地謡、楽器を演奏する「囃子方(はやしかた)」が登場し、それぞれの役割を演じることで一つの能が完成します。能の演目は200番あり、テーマは源氏物語や平家物語、伊勢物語など室町時代に上流階級から庶民の間で人気のあった、今でいう古典文学作品がもとになっているものが多いですね。僕はその中で登場人物や地謡を担当するシテ方です。
――川口さんはいわゆる「能楽師の家」の出身ではないのですよね。小さい頃から能楽師になりたいと思っていましたか?
考えていないどころか、大学に入学するまで能楽を観たことがありませんでした。父が漫画家なので、「自分も好きなことをして身を立てたい」とは、幼いころからずっと考えていましたが。
元々絵を描くのが好きだったので、絵描きになりたいと思っていたんです。でも、高校生になり進路を考えたとき、美術大学か芸術大学に行こうとも思ったのですが、なんだか息苦しさを感じて。
――それはどうしてでしょうか?
当時は言葉では表現できないモヤモヤでしたが、日本の芸術教育に対する違和感だったのではないかと思います。芸術という言葉は、明治時代以降に生まれたもので、西洋のアートに匹敵するものを作らなくてはいけない、と当時の人が考えて作った言葉なんですね。なので、芸術というとどうしてもアートの真似事なのではないかと。
自分に絵描きとして才能があれば、「そんなの関係ない!」と言えるのでしょうけど、当時の僕はそこまで自信がありませんでした。それで、その気持ちを抱えたまま美大に進むことに悩んでいました。
そのとき、家にあった能面の本をたまたま手に取って、能のもつ表現のレベルの高さに愕然としたんです。それがきっかけで、明治時代以前の日本人のほうが、はるかに優れた表現力と洞察力を発揮していたんじゃないかと思い始めました。それで美大に行くのをやめて、普通の大学に行くことにしました。大学では能楽のサークルに入り、趣味として能の舞台を見始めました。
――実際に生で能楽の舞台を見ていかがでしたか?
「こんなに美しく、かっこよくて深いものが日本にあったんだ」と驚きましたね。それから、どんどん能楽の魅力に引き込まれていきました。その中でも、ひときわすばらしい役者さんがいて。その人が幕から登場するだけで華があり、強く惹きつけられました。能だけではなく、造形や文筆、音楽などあらゆる同時代の表現者の中でも一番だと思いました。それが僕のいまの師匠です。
――師匠には「弟子にしてください!」と志願されたんですか?
いえ、そのときもまだ能楽師になろうとは思っていなかったですね。実は、まだ絵描きとしての気持ちも捨てきれていなくて。大学生の頃が人生の中で一番モヤモヤしていたと思います。それと、能楽を知れば知るほど、能楽師になるためにはかなりつらい修業をしないといけないと分かってきたので、絶対にやりたくないなと(笑)。
――まだ進路としては全く考えていなかったんですね。そこからどのような経緯で能楽師になったのか教えてください。
師匠の娘さんがたまたま同じ大学でした。共通の知り合いができて、「そんなにファンなら家に遊びに行こう」と誘ってくれたんです。そうして遊びに行っているうちに、師匠の事務所で、重いものを運んだりカレンダーを巻いたりなど、ちょっとした仕事を手伝うようになりました。すると、たまに師匠が現れて、「おお、ありがとね」と一言声をかけてくださって。そのときはまだ一ファンですから、舞台の感想をお話したりしていましたね。
そうしてたまに遊びにいっていると、ある日「川口君、手先は器用? 船の碇作ってくれない?」と師匠に言われたんです。「碇潜 (いかりかずき)」という能の演目で、壇ノ浦で平家の武将が碇を引き揚げて入水するシーンあるんです。師匠はその大事な小道具をどこの馬の骨ともわからない大学生に作らせたんですよ。うれしい気持ちもあり、舞台で使われている姿を想像しながら作りましたね。材料は段ボールとハンガー、割りばしだったのですが(笑)。
――大ファンの方に作ってほしいとお願いされたらうれしいですよね。普通は周りに頼まないものなんですか?
小道具は基本的に能楽師が自分で作るものなんです。後日、舞台を見に行き「自分が作った小道具が見せ場をつくっている……」と感動しましたね。
後日一緒に食事をしているとき、「川口君、能楽好きだよね。能楽師にならない?」と急に誘われました。それには「はい! なります」とすぐ返事をしてしまいました。迷いはなかったです。
同時代の表現者として一番尊敬している人から誘っていただき、その道に進む以外の選択肢はなかったです。誘われたときにはまだ学生だったので、卒業後、7年間の住み込み修業が始まりました。
7年間の内弟子修行、やめたいと思ったことはなかった
――先ほど「かなりつらい修業だと分かっていた」とお話にありましたが、住み込み修業では具体的にどんな生活を送っていましたか?
自由もプライベートもありません。食べるものと寝泊りするところは確保されていますが、給料は発生しない、いわゆる「丁稚奉公」ですね。
楽屋に布団を敷いて寝て、朝起きたら舞台や外、玄関などの掃除をしてから、師匠家の朝ごはんを作ります。自分たち内弟子はその合間にガッと食事をかきこんで。その後、師匠の舞台の準備などもすべて内弟子が行うので、公演数が多い師匠の弟子は特に大変でした。自分は「学校は遅刻して通うのが当たり前」のような学生だったので、いきなり生活が変わりましたね。
――辞めたいと思ったことはありますか?
実は、つらくて辞めたいと思ったことは一度もありませんでした。この環境ほど自分を鍛えられる場所はないと思っていましたし、もしもここから逃げたら、僕はどこに行ってもだめだろうな、と。修業の合間にすばらしい舞台を見ることができて、美しい能面や能装束を触れることができる最高の環境でした。すごく大変でしたけどね(笑)。
――「能が好き」という気持ちが勝っていたんですね。能の魅力は何なんでしょうか。
能は弟子修行もさることながら、舞台もつらいんです。能装束と能面を身に付けて、謡ったり舞ったりすると、重いし苦しいしすごくエネルギーを使います。だけど、僕が生命力を使うことで、能が成立していくということに喜びを感じるんですよね。能が日本で始まり約650年、そうして多くの人が自分の人生を使い、伝承してきたのが能です。「この素晴らしい能を存続させたい」と感じた人が自分の命を使いつないできました。
能はひらひらとしたきらびやかな美ではなく、強靭でどこから打ち込まれても弾き返すような美だと思っています。能の舞台では、美しくないものはひとつも存在しない。数百年かけて、美をつくりあげることに多くの人が心を砕いてきた伝統芸能です。そこが、ほかのどんなものも勝てないくらい素晴らしい点だと僕は思います。
能は永遠に完璧にはたどり着けない、一生の夢
――今はどのようなスケジュールで公演されているんですか?
僕が所属している梅若家の定期公演が、毎月第3日曜日にあるのでそれには必ず出演します。そのほかは月によって舞台のスケジュールは決まっていないです。多くて月に19公演くらいですね。リハーサルもあったりなかったりで。そのほか公演がないときには、習い事として能を習っている方がいるので、そういう方々にお稽古を付けたり、自分の稽古をしますね。全国津々浦々回っています。
――中高生から「能楽師になりたい」と相談があったらどうお答えしますか?
能の世界でも人が減っていますし、能が好きならぜひ叶えていただきたい。僕も能の家に生まれたのではなく、好きでなったものなので、手引きができるかなと思います。
ただ、僕が入った後も多くの子が入っては辞め、入っては辞めていきましたからね……。実際に能を見て、その世界に触れる中で、本当にやりたいかどうかをきちんと見極めてください。本当に好きではないと続かない世界ですから。
能に限らず伝統的分野はどこも後継者不足で苦境に立たされています。皆さんもぜひ古い物に積極的に触れ、好きなものがあればとことんその道に進んでほしいですね。逆に言うと、いまそういう分野は本当に好きな人が活躍できる時代が来ている、ある意味チャンスなのだと思いますよ。
――川口さんにとって能とはどんな存在ですか?
僕にとって「能」はいばらの道。ときに見晴らしのいい場所がありますが、ほとんどつらい道のりです。でも、夢ってそうやって歩んでいくものなんだと思っています。僕は能に出会ってはじめて夢というものを得ましたね。僕にとって、能は永遠に完璧にはたどり着けない一生の夢です。
(松尾奈々絵/ノオト)
取材協力
川口晃平
シテ方観世流能楽師、梅若会所属。昭和51年、漫画家かわぐちかいじの長男として生まれる。慶應義塾大学在学中に能に魅せられ、能の道を志す。大学卒業後の平成13 年、五十六世梅若六郎玄祥に入門。その年復曲能「降魔」にて初舞台。平成19年独立の後、今までに能「翁」の千歳、能「石橋」「猩々乱」「道成寺」を披く。舞台に立つ傍ら、能楽普及のレクチャーを各地で行う。
※本記事はWebメディア「クリスクぷらす」(2017年7月4日)に掲載されたものです。