交通事故で脱サラし、エルメスの店舗装飾を担当! 家電蒐集家・松崎順一さんインタビュー
先輩に聞く
2017/06/26
所狭しと並ぶラジカセや家電の数々。“家電蒐集家”を名乗る松崎順一さんの事務所「デザインアンダーグラウンド」を訪れると、奥の方から「どうぞ」と声がかかった。
42歳でデザイン会社を辞め、独立。最初は鳴かず飛ばずだったが、今では断り切れないくらいの仕事が舞い込む。ラジカセの展示会、ファッション店のディスプレイ、テレビドラマの演出……etc. 最近盛り上がりを見せているカセットテープ関連の取材も増えているという。
「面白いものは、時代を超越して必ず残る」と語る松崎さんに、これまでの生い立ちや現在のビジネスに至る経緯を聞いた。
過去の経験はすべて、今の仕事に生かされている
――仕事の内容を教えてください。
家電関係のイベントプロデュースと、百貨店やお店の装飾・ディスプレイの依頼が多いですね。エルメスのディスプレイはずいぶん長くやっています。
最近はテレビドラマの仕事も多いです。いまだとNHK「ひよっこ」の家電系の演出とか。オープニングに出てくる家電はだいたい僕が集めて提供しています。各テレビ局、CM、映画関係、いろんなところから声がかかりますね。
あとは本を作ったり、webの連載で書いたり。デザイン会社の顧問もやっています。
――すごく幅広いですね。
子どもの頃の趣味からデザイン会社での経験まで、自分の中では全部つながっています。いままでやってきたことは一切ムダがなく、現在の仕事に生かされていますね。
既存のものを使って楽しむだけじゃ満足しないんですよ。もっと何か面白いことができないか、と常に考えています。その思いは、昔からあったような気がします。
高校生で英語がペラペラに! きっかけは、アマチュア無線の交信だった
――子どもの頃から家電が好きだったのでしょうか。
最初はオーディオですね。僕が中学生の頃、男性のあこがれの趣味って圧倒的にオーディオだったんですよ。親父がいない間に、家にあったオーディオで借りてきたレコードを聴いたり、カセットテープで録音したりしていました。
あと、友達とラジオドラマを作ってました。4~5人で集まって、脚本を書いて、効果音を入れて。音質は悪く、中身もつぎはぎでしたけどね。
録音して良い音楽を聴くだけでなく、「工夫して、面白い遊びを考える」っていうのは昔からやっていましたね。
――高校生の頃はアマチュア無線に興味があったとか。
世界中の人と交信できるアマチュア無線の存在を知り、「やってみたい!」と中学生で免許を取りました。最初は小さなトランシーバーから始めて、高校生の頃はアルバイトのお金で無線機をいっぱい買って、世界中の人と交信してましたね。自宅の屋根にデカいアンテナを立てて。
――世界中の人と、ということは、やりとりはもちろん英語ですよね。
とにかく海外の人と話したくて英語を覚えたんです。だから苦労した感覚はなくて、楽しかった。交信するたびに新しく覚えた単語を話してみて、トライ&エラーで「あ、これ通じた」と。
まわりに外国人もいないし、英会話教室もほとんどない時代でしたが、アマチュア無線以外にも海外のラジオ放送を聞いていたので、だんだん聞き取れるようになるんですよ。高校生の頃はもう英語ペラペラでした。それ以外の教科はダメでしたけどね。
――アマチュア無線で海外の方と交信するとき、どんな内容を話しましたか。
自己紹介から始まって、「いま日本は夏だよ」とか、好きな食べ物とか。雑談ですね。そんなにキチッとした英語じゃなくてもいいんですよ。適当に話せば、むこうもなんとなく理解してくれるので、面白かったですね。英語圏じゃない人とも英語で話すので、お互いたどたどしい(笑)。でもそれはそれで楽しいんですよ。
――それは、アマチュア無線ブームの頃でしょうか。
そうですね。僕は中学生で免許を取って、交信していると同じ年頃の子もたくさんいましたよ。アマチュア無線の友達がいっぱい増えました。直接会って話すことを無線用語で「アイボールQSO」と言うんですが、みんな週末に集まって遊んでました。最近で言うところのオフ会ですね。
いまはSNSを通じて「じゃあ、実際に会いましょうか」ってなるけど、当時はアマチュア無線だった。そういう意味では、昔とあんまり変わってないんですよね。手段が無線機からスマホに変わっただけで。
――その後、デザインの専門学校へ?
中高生のころは「将来何になりたい」とか、あまり考えていませんでした。オーディオやアマチュア無線は好きだったけど、あくまで趣味の範囲。僕は小さいときから絵を描いたり、ものを作ったりするのが大好きでした。親はそれを見てて、「デザインだったら手に職つけて、飯食えるんじゃないか」って。それでデザイン系の専門学校に進学しました。
専攻はインテリアデザイン。何もない空間をデザインで演出するのが好きだったので、室内装飾・インテリアを2年間勉強して、卒業後デザイン系の会社に就職しました。
人生を変えるきっかけとなった交通事故
――会社ではどのような仕事をしていましたか。
最初は違う部署に配属されたのですが、途中からは新商品の開発・研究をやってました。「新規事業開発部」みたいな部署です。当時はバブル期だったので、会社も右肩上がりで、時代的にも良かったんですよね。
イルミネーションや新しい照明器具、あとは外部とコラボして空間演出をしていました。百貨店やアパレル系の店舗ディスプレイが多かったかな。銀座のショーウィンドウとかも手掛けてましたね。
――仕事は順調だったのに、なぜ会社を辞めたのでしょうか。
37歳のときに、大きな交通事故に遭ったんです。背骨を折って全治6カ月、ずっと寝たきりでした。それが一大転機になりましたね。残りの人生を考えるきっかけになりました。「このままでいいのかな」、と。
デザイナーって世の中にいっぱいいて、自分の代わりもいる。自分が生きた証を残すべきじゃないか、とか、自分しかできないことは何だろう? とか。いろいろ考えましたね。
――退院した後、すぐ次の仕事に?
いえ、5年間はまだ会社にいました。もう一つ、辞めるきっかけがあったんです。長年勤めていると、必然的に昇進して管理職のポジションになってしまう。生涯、現場の最前線にいたいっていう思いがあって、管理職やるんだったら会社辞めて自分の好きな道に進みたいな、と。上司にも妻にも反対されましたが、なんとか説得して、42歳で辞めました。
――そのときすでに、家電を仕事にすることを考えていたのでしょうか。
あまり考えてなかったんですよね。次はどうしようかと考える中で、やっぱり好きなことを仕事にしたいな、と思い始めて。中高生の頃を振り返って「あの頃、家電とかオーディオが好きだったな」と。改めて再確認すると、当時の家電がとても魅力的なデザインに感じたんです。「こんなカッコイイもの、いま無いじゃん!」って。
その頃、古い家電は見向きもされず、葬り去られていました。そんな中、「ラジカセかっこいいよ」「カセットテープ、新しいよ」と一人で発信を始めたんです。周囲からはたくさん批判されました。でも自分の思いに共感してくれる人は絶対いるはずだ、と。
――その頃、収入はどうしていたのでしょうか。
最初は小さなお店を始めて、ラジカセを販売していました。まず古物商の免許を取って、仕入れルートを確保、開拓して。でも4、5年は鳴かず飛ばずで、生活も苦しかったですね。
そのうち、「こういう仕事ができますか?」という話が来るようになったんです。最初は千葉市にある子供科学館のディスプレイの仕事でした。その実績から、徐々に広がっていきましたね。知り合った方が出版社につないでくれて「本を出したらどう?」っていう話になって。それが「ラジカセのデザイン!」です。本を名刺がわりに、いろんな方面にアプローチしていきました。
大いに悩む、それでいい
――松崎さんの仕事に対するモチベーションは、どこから出てくるのでしょうか。
僕は将来の目標とか、あんまりなくて。いまやりたいことを全力でやって形にすると、次にやりたいことが必ず見えてくるんです。
多くの人はいわゆる「成功者」に憧れるけど、そういう人たちはほんの一握りで、たまたまそうなっただけだと僕は思っています。自分らしい生き方を通せれば、それが一番の成功なんじゃないかな。一生サラリーマンで、それが自分らしいと思えればそれでいいし、クリエイティブな仕事をしているからカッコいいという訳でもない。
世間的に大したことじゃなくても、突き詰めていけば自分の力になるはずです。
――進路や生き方に悩んでいる人に、メッセージをお願いします。
悩むことは、素晴らしいことなんです。悩むってことは、自分をどうにかしたいということですよね。で、人生ってたぶん、死ぬまで悩みの連続なんですよ。僕も常に悩んでいます。結論が出る出ないじゃなくて、大いに悩む。それでいいんです。世間的に成功している人、例えば大企業の社長でも悩んでいると思います。
そのとき参考になるのが、先人の知恵。中高生なら本を読むのがすごく良いと思います。僕も気になることがあるとすぐ本を10冊くらい買ってきて、ヒントになりそうな内容をピックアップしてメモします。
あと、若いときはいろんなものを見て経験して、自分の幅を広げることが大切なんじゃないかな。旅行でもアルバイトでも、いままで経験したことのないことをやってみる。それで世の中の見方、考え方が変わってくるはずです。
(村中貴士+ノオト)
取材協力
松崎順一
1960年8月16日、東京都生まれ。家電蒐集家。専門学校を卒業後、デザイン会社に勤務し、店舗の空間デザインなどを手がける。退職後の2003年、東京・足立区にファクトリー「デザインアンダーグラウンド」を設立。日本製ラジカセを主とした1970年代以降の家電製品を発掘・蒐集し、整備・カスタマイズしてイベントやアート展を企画。さらにNHK「とと姉ちゃん」「ひよっこ」など多数の番組の家電に関する時代考証を監修、演出。2017年より、自身がプロデュースするラジカセブランド「MY WAY」を皮切りに、新しい家電提案を発信している。著書に「ラジカセのデザイン! 増補改訂版」(立東舎)など。
※本記事はWebメディア「クリスクぷらす」(2017年6月26日)に掲載されたものです。