気になる“よその家の子育て” ~娘がグラミー賞を受賞した永谷家の場合~
先輩に聞く
2017/07/11
書店の本棚にはたくさんの子育て本が並び、SNSでもさまざまなノウハウを学ぶことができる時代。けれど本当に知りたいのは、エリート家族やスーパーママなど“特別な家”の体験談ではなく、生活レベルが自分と似たり寄ったりの「ふつうの家族の子育て論」ではないか――。
そんな風に原稿を依頼された今回。どの街にもいそうな中流家庭の永谷家(筆者の実家)で「親として子どもの夢をどう応援するか」をテーマに父と娘が語り合ってみた。
●お話を伺った人
1944年生まれ。5人兄妹の末っ子。父親は数学の高校教師で「できて当たり前」と厳しく教育されたため、自分の子どもたちには「勉強しろ」と口うるさく言わないと心に決めていたそう。
1977年生まれ。音楽エンジニア・医療クリニックのオフィスマネージャー。Conservatory of Recording Arts and Science卒業後、音楽スタジオSTANKONIA(アメリカ・アトランタ)で働く。2003年に担当アーティストのOutKastがグラミー賞「最優秀レコード賞」を受賞したことから、楽曲に携わったエンジニアとして同賞を受賞。その後一児の母となり、現在は医療クリニックのオフィスマネージャーとして働く。
1980年生まれ。フリーランスライター。ブックライターとして携わった書籍は、『成約率98%の秘訣』(和田裕美著/かんき出版)、『バカ力』(山名裕子著/ポプラ社)など。
「ダメ」と言われるとやりたくなる人間の心理
晴香:私たちってどこにでもいる普通の兄妹だったと思うけど、ひとつ特徴があるとすれば、3人とも幼少期から明確な目標を持ってたよね。どうしてだろう。
モカ:不自由だったからじゃない? うちの家は、禁止事項がとにかく多かった。テレビもダメ、テレビゲームもダメ、買い食いもダメ、友だちの家に泊まりに行くのもダメ。外食も滅多になかったし、数百円の玩具すらなかなか買ってもらえなかった。でも、禁止や否定をされると、「なにくそ」と思うんだよね。目標を決めて、それに執着していた。
晴香:厳しかったねぇ。その上、「うちの子なんてどうせダメですから」みたいなネガティブ発言する親だった……。父は、なぜそんなに私たちに厳しくしていたの?
父:そりゃ、なんでも「はいはい」って与えていたら、“雑草魂”が育たないでしょう。努力して得たものは、ありがたみがあるってもんで。
晴香:う~ん。分かるんだけど、「禁止」って子どものフラストレーションがたまるやり方なんだよね。私、欲求不満すぎて、あるとき母に相談したのよ。「やりたいことがありすぎて困ってます」と。すると、「夢の中でやりなさい。なんだってできるよ、空を飛ぶことだって」と返されて、身につけたのが「明晰夢」だった。
※明晰夢=「これは夢である」と自覚しながら見ている夢のこと。内容を自由に変えられることも。
モカ:母の真意はそこだったの? 寝て見る夢のこと?
晴香:私なりにそう解釈して、夢の中でテレビを見まくったり、ジャンクフードを好きなだけ食べたり、クルマを運転したり、空を飛んだりして、好きなことをなんでもしたの。楽しかった!
モカ:自分も子どもを産んで母親の立場になって思うのは、いろいろ禁止するのは親にとっても負担だということ。子どもがぐずったときくらいテレビを見せたり適当な玩具を買い与えたほうが、親としては断然ラクだもん。
父:よくぞ言ってくれた。
晴香:そうかもしれないけど、私にとってはつらい記憶だなぁ。モカがアメリカ永住の夢を抱くきっかけは何だったの?
モカ:唯一見ることを許されたテレビドラマ『大草原の小さな家』がきっかけかな。靴のまま家に入る習慣や食事やファッションまで、アメリカ文化の虜になっちゃったの。普段テレビを見せてもらえなかったから、映像そのものに夢中になったのかもしれないけど。
晴香:懐かしいー! 毎週日曜の夕方にNHKで再放送されてた。
モカ:あとは、母が20代のときから続けていた『ラジオ英会話』(NHK)の影響も大きかった。
父:母さんは、3人の子育てをしながら毎日欠かさず英語の勉強をしていたね。66歳で他界する直前まで続けたのだから、英語は生活の一部だったんだろう。
自学学習でも、ネイティブ級バイリンガルになれる
晴香:モカの英語の素晴らしい点は、ネイティブ並みに発音がキレイなこと。高2で留学するまで、自宅学習だけでしょ。どうやって英語を覚えたの?
モカ:海外ドラマをビデオに録画して、日本語で見て、英語で見て、さらにカセットテープに録音して夜聴きながら寝てたの。
晴香:あ~、やってたね。学校の英語の成績も良かった?
モカ:それが、さっぱり。英語はあくまで「遊び道具」だったから、リスニングがメインで、文法を疎かにしたんだよね。心配した母が英語の先生をしてくれるようになって、それからは成績がぐんと伸びたんだけど。全国模試でトップ20入りしたときはうれしかったな。
父:母さんはいわゆる教育ママではなかったけど、真面目な人だったからね。熱心に指導したんでしょ。
晴香:リスニングといえば、洋楽もよく聴いてたね。
モカ:それは音楽好きの父の影響。自宅にビートルズコレクションがあったから、CD音源をカセットテープに録音し直して、歌詞カード片手に耳コピして歌ってたの。音楽にハマるきっかけになったのは『エド•サリヴァンショー』。
晴香: これもNHKの再放送ね(笑)。才能の塊みたいな番組だった。
モカ:スティーヴィーワンダーやジャクソン5からはじまりMotownレコードの大ファンになった。ブラックミュージックが大好きになったこの頃から、将来の夢が「アメリカに永住して“音楽で食べていく”」に変わったの。
晴香:「音楽で食べていく」か。子どもらしいね。漠然としてる。
モカ:父もジャズ好きだったので、なんだかんだ両親の影響は大きかったんだと思う。
父:なにも僕らは、すべてを禁止したかったわけじゃないんだよね。まずは良いものを子どもに見せてあげたいという親心だった。
晴香:初めて渡米したのはいつだっけ?
モカ:高校1年の春休み。10日間ユタ州の郊外にホームステイしたの。日本人が1人もいない世界に行ったのね。
晴香:父さんは、モカのホームステイの話を聞いてどう思った?
父:本人にやる気があったし、良い経験になると思ったよ。反対する理由がなかった。
モカ:その10日間で、「アメリカに永住して音楽で食べていく夢」に拍車がかかったの。その翌年、「今度は1年間留学しませんか」というお便りがホームステイの運営会社から届いて、行くっきゃないでしょ! と。
晴香:だけど反対されたんだよね。
モカ:一大決心して両親に相談したけど、あっさり却下された。
晴香:モカの落ち込みようがあまりにひどくて、そのときのことをよく覚えてる。父は、なぜ反対したの?
父:留学に反対したのではなく、「タイミングが悪すぎる」と言ったの。高2の春休みから1年間交換留学するプランだったので、高校の卒業証書をもらえない可能性があったんだよ。高校も出ず、ふらふらして、将来何で食べていくつもりなのかと。
晴香:そりゃそうだ。
モカ:私としては、小学生のときからあたためてきた夢を否定された気持だったの。ようやく訪れたチャンスだったのに。それで……。
父:母さんと一切口をきかなくなったんだよな。
晴香:なにか用事があるときは、全部妹の私に伝言してくるんだよね。キツイ言葉はできるだけやわらかい言葉に変換して伝えていたから、気を使ったわ~。あの時は、家族みんなが悲しい思いをした。
モカ:反対されたことだけに絶望してたわけじゃないよ。「うちの子なんてどうせ才能ない」みたいな親の決めつけが許せなかったの。チャンスをくれれば自力で立てることを証明したかった。
晴香:最終的に、なぜ父は留学を許したの?
父:モカを見ていて、それほど強い意思があるなら1人で勝負してみろと考えを改めたわけ。
晴香:ほう。
父:というのも、父さんには、モカの気持がわからなくもなかったんだ。私も高校時代にまったく同じことを父親にしてしまってね。父親を無視し続けて、それは大学生になって親元を離れるまで続いたの。その時のことを思い出したんだ。
最大のピンチを救ってくれたのは、両親だった
モカ:いざ渡米したら、親が反対するのもわかるってほど、すごく大変だった。全科目を英語で受講するので、半分パニック状態だし、日本人である私に誰も話しかけてくれないの。頑張って隣の席の子に自己紹介をしても、見向きもされない。当時はSkypeなんて便利なものはないから、ひたすら孤独だったよ。
晴香:インターネットがない時代だったし国際電話は高額だったから、連絡手段は手紙だったものね。届くのに1カ月近くかかることもあったし。
父:運が悪かったのは、ホストファミリーに恵まれなかったことだな。満足に食事を与えられず、ファストフードをポイッと出されるだけ。勉強したくても、ベビーシッターをさせられる始末。
モカ:ホストファザーが差別的な発言をする人だったの。毎日深夜まで勉強していた私に、家族が寝静まったのを見計らって、心ない言葉で罵ってくるのよ。高校生だった私はただ耐えるしかなかった。
父:あるとき、泣きながら国際電話がかかってきたんだよね。ホストファミリーと揉めて、強制送還されそうだと。そのときはじめて娘のいる場所が劣悪な環境だと知って。「すぐに手を打ってくれ!」と留学斡旋会社にやかましく言って、ようやくホストファミリーを変えてもらった。
晴香:日本に帰りたいとは思わなかったの?
モカ:まさか。何があっても1年間頑張り抜くと決めていたからそんな気はみじんもなかった。それよりも、あれだけ反発して不義理をしてしまった両親に助けてもらったことが情けなくて。これまで自分が母にしたことを深く、深く、反省しました……。
晴香:結局、高校の卒業証書はもらえたの?
モカ:そう、もらえたの。アメリカで取得した単位を日本の高校が認めてくれて、卒業できたよ。
父:それが唯一父さんの望みだったから、ホッとしたなぁ。ここまで頑張ったのだから、あとは本人の自由に生きればいいと思った。
親に鍛えられた“雑草魂”をついに発揮するときがきた
晴香:卒業後の進路は?
モカ:サンフランシスコの大学を受験して合格通知ももらったんだけど、辞退することにしたの。私が本当にやりたいことは、「アメリカに永住して音楽で食べていく」ことだったので、大好きなブラックミュージックが盛んなLAに語学留学して、その後、音楽の専門学校に進学した。
晴香:「音楽の道に進みたい」と言われたときに、父はどう思った?
父:寝ぼけたこと言うなと思ったよ(笑)。でも、そこはもう親にはわからない世界でしょ。本人のやりたいようにやればいいと思った。
晴香:モカの音楽経験といえば、幼稚園の頃から続けていたピアノくらいでしょ? 通用するものなの?
モカ:通用しません。だから最初はものすごく苦労した。生徒は私以外全員アメリカ人だったので、まず言葉のハンディがある。同級生のみんなは豊富な音楽経験を持っていて、例えば「ラジオ局で働いてました」とか、プロ顔負けの技術があって「ハイスペック機材も使いこなせます」とか。スキル的にも歴然とした差があったし、私は語学学校に通った分遠回りしているから、クラスで一番年齢が上だった。
晴香:どうやってその差を詰めていったの?
モカ:学校は24時間開いてたから、放課後深夜まで居座ってあらゆる機材を使って猛勉強したの。そんなことをしてるのはクラスで私1人だけだったから、アフタースクールの先生が一から実務を叩き込んでくれた。その間、他の生徒は遊んでるわけ。卒業する頃には学年トップレベルで実技ができたので、学校が一流の音楽スタジオを紹介してくれたの。
キミがやりたいことは、LAじゃなくアトランタにある
晴香:なぜアトランタだったの? もともとLAに住んでたから、てっきりLAで就職するもんかと。
モカ:学校の先生のジェロームに、「モカのやりたいことはLAじゃなくてアトランタにある」と言われたの。LAやNYはあらゆるジャンルの音楽が盛んだけど、90年代のR&B・HIPHOPのヒット曲はすべてアトランタから生まれていたんだ。世界的プロデューサーのベイビーフェイスが立ち上げて、TLCやアウトキャスト(OutKast)が所属していたラ・フェイス・レコード(LaFace Records)はアトランタ発祥だし、ジャーメイン・デュプリ(Jermaine Dupri)、アシャー(Usher)、リル・ジョン(Lil Jon)などの売れっ子もみんなアトランタの人。
晴香:なるほど。
モカ:先生の言葉を信じて行ってみたら本当にその通りだったよ。紹介された音楽スタジオ「Stankonia」はアウトキャストがオーナーをしていて、そこからヒット曲がぼんぼんリリースされていた。そこでインターンシップをさせてもらえることになって、トイレ掃除からパシリまで、ドロドロになってなんでもこなした。
父:よく頑張ったね。
モカ:大変だったけど、OutKastのAndré 3000やBigBoiが仕事仲間になる喜びといったら……!
あとは、時代が味方してくれた。当時、レコーディングの最前線は、アナログからデジタルに移行しつつあって、アナログしか扱えないベテランエンジニアが次々と切られていたの。その点私には、アフタースクールの先生が叩き込んでくれた「Pro tools」の最新スキルがあったので、新人にも関わらず人気アーティストのセッションに呼ばれるようになった。先生、本当にありがとう!
晴香:モカは、このスタジオで今の夫であるクリスと出会ったんだよね。クリスもエンジニアとして大活躍していて、ビヨンセのCDに彼のクレジットが載ったときは興奮したな~。
モカ:そこからはトントン拍子だったな。エンジニアデビューした翌年に、OutKastがグラミー賞「最優秀アルバム賞」を受賞してね。受賞アルバム『Speakerboxxx: Love Below』のエンジニアを務めた私も、グラミー賞をいただくことができたの。
晴香:父は娘の晴れ舞台を見て、どう思った?
父:それが、未だに見てないんだよね。今、初めて写真で確認してるところ。おお、ここにモカがいる。
晴香:あっさりしたもんだね。では、写真を見て、どう?
父:そりゃうれしいよ。娘が語りきれないほど努力してきたのを知るだけに、ようやく報われる日がきたかと。何より、自力で手に職をつけたことが誇らしかったな。
モカ:お父さん、そう言ってくれてありがとう。
晴香:モカが夢を叶えるまで簡単な道のりではなかったわけだけど、父さんは「子どもの夢をどうやって応援すればいい」と思う? 父なりに思うことがあれば、お願いします。
父:まず、本人の本気度を徹底的に見極めること。子どもが「やりたい」と言っても、簡単に許しはしない。いくつか試練を与えて、それでも情熱が冷めなかったら手を貸す。そして、親として一度応援すると決めたら、細かいことに口を出さないこと。本人がSOSを出してきたときのみ全力でサポートすること。
晴香:たしかに、何かをはじめるときのハードルはめちゃくちゃ高かったけど、いざはじまってしまうと、良い意味で放任主義だったよね。拍子抜けするくらい。
モカ:言葉で応援してくれることはほぼなかったけど、態度で示してくれたというのはあったかな。たとえば、うちの両親はどんな小さな嘘も決してつかない人たちだよね。約束を破られた記憶もない。そういうのって、追い込まれたときに良い教訓になるんだよね。自分との約束を絶対に破るな、両親ががっかりするような決断は絶対にしない、みたいな。
晴香:今日はどうもありがとう。父が元気なうちに話ができて良かったです。
親はどんな意図を持って子どもを育てたのか、子どもたちはそれをどう受け取っていたのか。子どもが大人になったタイミングで、「あの時どう思っていた?」と話をしてみるのもいいのかもしれない。
(両角晴香+ノオト)
※本記事はWebメディア「クリスクぷらす」(2017年7月11日)に掲載されたものです。