競技を始めてわずか3年でパラリンピック出場! シットスキー新田のんの選手、挑戦の原点
先輩に聞く
2018/07/23
シットスキーは、主に下肢に障害のあるスキーヤーが、座席にスキー板を固定し、2本のポールを使い腕の力で前進する競技。
2018年3月の平昌パラリンピックに初出場を果たした、北海道札幌市出身の新田のんの選手は、シットスキーを始めて、まだ3年だという。夏は車椅子マラソン、そして美術専攻の大学生という顔も。先天性の両下半身麻痺の障害を抱えながら、次々と新しいことに挑んでいく原動力はどこにあるのか? 新田選手に伺った。
眠れないほどの緊張のいつもの大会とは違った平昌パラリンピック
――平昌パラリンピック出場決定の知らせは、どちらで受け取ったのですか?
ワールドカップ前のカナダ合宿のお昼休憩中です。「のんちゃん、決まったよ!」と言われて、「わー! やったー!!」と叫びました(笑)。すごくうれしかったですよ。本当はお昼寝をする予定のだったんですが、全然寝られなくなってしまって、そのまま午後の練習に行きました。
――実際にパラリンピックに参加してみて、いかがでしたか?
すごく緊張するほうなので、普段の大会前日はあまり寝られないんですよ。でも、平昌パラリンピックの時はお祭りみたいな雰囲気で、緊張よりも楽しい気持ちの方が大きかったです。
他国の選手もいつもよりテンションが高い方が多くて、楽しい時間をたくさん共有できました。もちろん競技の時間はピリピリしているんですが。
ビリの悔しさがアスリートへの道を拓いた
――シットスキー以外にも、車いすマラソンをされていると伺いました。競技を始めたキッカケは何でしょうか?
普通学級に通っていた小学校の頃、車いすで走る私はマラソン大会で毎年ビリだったんです。それが悔しくて。何とかこの気持ちを晴らしたいと思い、当時通っていた発達医療センターの先生に「車いすを使う人のためのマラソンがある」と教えていただいたのがきっかけです。小学校3年生から車いすマラソンを始め、様々な大会に出場し、国体で2連覇しています。
――では、どういう経緯でシットスキー競技に参加することになったのでしょう。
2014年に一度競技に誘われたのですが、体調がすぐれなかったこともあり、大会の見学をさせてもらいました。その時は「すごく苦しそうな競技だな」と思いながら見ていたんです。2015年に再度、「一度、(シットスキーの)体験会に来てみないか」とお声がけいただき、ちょうど体調も回復していたので、軽い気持ちで行ってみたら、それが本格的な合宿で(笑)。
――いきなり本格的な練習へ?
そうなんですよ。私が来ても大丈夫なのかな、と思ったんですが、実際にやってみたら楽しくて。車いすって、冬は雪のせいで全然動かせないんです。でも、シットスキーに乗ったら雪の上でも自由に動ける。それがすごく楽しくて。
――そのまま、競技としてやってみたいと思ったんですか?
はい、そのまま競技として始めました。その翌年2016年12月には、フィンランドで開催されたワールドカップに出場しました。でも、その時自分の実力と「世界の記録」との差の大きさを自覚して、ではその差をどうやって縮めていくかへ意識が切り替わりました。そして、本格的にパラリンピックを目指すことになったんです。
人見知りなんて言っていられない……より高みを目指すために変わったこと
――すごいスピードでの展開ですね。どうやって上達をされたんでしょうか?
実は、日本チームに私と同じ障害がある方はいないんです。シットスキー競技選手も、男性が1人いるだけ。なので、日本チーム内だけでは競技の情報共有が難しい。そこで、大会に出た時に積極的に他の国の選手の連絡先を聞いたり、競技が終わってからアドバイスをいただいたりしています。
――英語を話せるのですか?
ちょっとだけですが(笑)。相手の言っていることは分かるので、単語で返したりしています。例えば、一口に「シットスキー」といっても、障害の重さや座高の違いでスキー板やポールの長さがそれぞれ違う。結局、自分で買って試さないと合っているものかどうかもわからないんです。だから、他の選手の方がどうやって選んでいるのかをよく聞くようにしています。例えば、身長や座高の高さ、使うポールの長さの違いでこぐ時の距離の出方は違ってきます。「座高が低い場合、長いポールを使った方がひとこぎで大きく進むことができるから、そちらの方がいいのでは?」といったアドバイスをいただいたりもしました。
――でも、いきなり初対面の人に英語で話しかける、ってなかなかできませんよね。
私も、結構人見知りで、初対面の人と全然話せませんでした。でも、スポーツをやるようになって、そういうところはだいぶ変えてこられたと思います。競技をやっている中で、できないことがすごく多いんですよ。アドバイスしてくれる人がいない状況なので、やっぱり積極的に自分から聞いていかないと競技力が伸びないと思っています。
生死の危険を感じてまでも競技を続ける意味
――大学では、油絵を専攻されているんですよね? 学業、絵を描くこと、そしてシットスキー競技……とやることがたくさんあると思うのですが、全部をきちんとやっていくコツはありますか?
競技と学業のどちらにも集中が必要なので、気持ちと時間の切り替えを大事にしています。もちろん合宿中は絵を描くことはできないので、合宿が終わったら競技でたまったストレスを絵にぶつける。なので、競技を始めてからの方が、絵の色の混ざり方や明るさのバリエーションが増えていきました。相乗効果というか、絵の方も良くなっていっていると思います。
――つらいなーと思うこともありますか?
もうとにかく時間が足りないんですよ。競技のために授業を休まなければならないので、補講への出席やレポートの提出も必要です。
しかも、競技をやっている時は本当に苦しい。シットスキーは冬の競技なので、マイナス20℃くらいの場所で練習します。実は、私は体温調節がうまくできないんです。だから、一度体が冷えてしまうとどんどん体温が奪われてしまう。合宿の最終日に、全く動けなくなってしまい、本気で身の危険を感じたこともありました。「こんなふうになってまで、続けていくべきなのかな。どうしてこんな思いまでして、競技をやっているんだろう?」と思ったこともあります。
新しいことに飛び込み、続けていくためのチカラ
――つらい中でも、競技を続けるモチベーションはなんでしょうか?
他国の選手との交流をはじめ、競技を続けることによって得られるものがたくさんあるので、あきらめたくないと思うんです。もちろん、そこに良い結果ついてくるとうれしいですが、私はまだシットスキーを始めて3年目の新人です。ほとんどの選手が10年、20年と続けている方ばかりなので、いきなり私が勝つのは難しいと思っています。でも、徐々にタイムも上がってきているので、これからも頑張っていきたいです。
――またシットスキーの用具を作る資金を集めるクラウドファンディングにもチャレンジされていましたね。クラウドファンディングも含め、初めてのことを行う勇気の源は何でしょう?
シットスキーの用具は、1人1人の体に合わせた特注用具で、費用も高いんです。それで、クラウドファンディングを利用しました。
原動力は、たくさんの方の応援ですね。クラウドファンディングを始めるのも後押ししてくださいましたし、競技に臨む時も、応援されると本当に自分のチカラになるのを感じます。
実はクラウドファンディングの締め切り当日、目標金額にあと少し届いていなかったんです。そうしたら、ちょうど北海道新聞さんが記事に取り上げてくださったんですね。それを読んだ近所のおばあちゃんが「そんなに頑張っているのなら、出してあげましょう」と賛同してくださって、目標金額を達成できたんです。
クラウドファンディングをきっかけに、それまで面識のなかった方から、新たに応援いただけるというのがとてもうれしかったです。
――いろいろな形で広がる応援がチカラになっているということですね。
はい、そうですね。あと、自分が新しい競技に挑戦する時は、それが本当に面白いと感じてやっています。
クロスカントリーはコースの高低差や斜度を考えてコース取りをするのですが、それで、自分の思い通りの滑りができた時は「よし!」と思えますし、滑り抜ける時の風景の移りゆく様子がとても楽しいのです。バイアスロンでは、滑ってきたところから呼吸を整え、静と動の切り替えをし射撃するところが醍醐味。だから、「この面白さをもっとたくさんの人たちに伝えたい」という気持ちも、頑張るための大きなきっかけになりますね。
――最後に中高生の皆さんに伝えたいことをお願いします。
初めてのことをやろうと思うと、一歩踏み出すのってなかなか難しいと思うんです。でも、私自身も新しいことを少し体験したり、ちょっと見てみたりするだけで、すごく世界観が変わっていきました。
私の例で言ったら、シットスキーももちろんですが、大学で美術の勉強をさらに深めたり、新道展に絵を展示させていただいたり、クルマの運転免許をとったり。そういったことで新しい発見がありました。だから、いろんなことに挑戦して、自分の引き出しをいっぱい作ってほしいな、と思います。
これからに向けてまだまだ新しい挑戦を
将来は学校の先生になって生徒たちにいろいろなことを伝えていきたいという新田選手。先日は、教育実習で母校にも出向き、さらに活動の幅を広げている。さらに、シットスキー競技者としてもまだまだ挑戦を続けていく新田選手の今後の活躍が楽しみだ。
(企画・取材・執筆:わたなべひろみ 編集:鬼頭佳代/ノオト)
新田のんのプロフィール
1996年7月23日北海道札幌市出身。北翔大学在学中。小児がんの神経芽細胞腫で両下半身麻痺で生まれ、車いす生活に。 小学3年から車いす陸上を始める。中学3年からは競技用車いす (レーサー)で長距離マラソン大会にステップアップして多くの大会で優勝を果たす。
2015年よりシットスキーによるクロスカントリーを始め、 翌2016年12月のフィンランドで開催されたワールドカップで海外レースデビュー。2018年3月平昌パラリンピックに初出場。
※本記事はWebメディア「クリスクぷらす」(2018年7月23日)に掲載されたものです。